日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 84号

教会だより

「今のままで、気にせずに」

―  コリントの信徒への手紙一 7章17~24節 ―

おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。召されたときに奴隷であった人も、
そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのま
までいなさい。というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なの
です。あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。
                     (コリントの信徒への手紙一 7:20~23前半)

 キリスト教会は、主イエス・キリストを救い主として信じ、主に従う道へと召された者たちの群れです。ただ主イエス・キリストを信じる信仰において一つとされている群れであって、そこで社会的な身分や地位が問われることはありません。

紀元1世紀、使徒パウロの伝道によって、今のギリシャにあるコリントの町に生まれた教会にも、この世における社会的な身分で言えば、実にさまざまな人々がいたに違いありません。奴隷の身分にある者がおり、その一方で奴隷を持つ主人である者もいて、双方がイエス・キリストという同じ主人を持つ者として一つの教会に連なっていたのです。そのような教会に生きる人々に向けて、パウロは語りかけます。「あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです」。

ここで「身代金」と言われているのは、十字架の死において捧げられた御子キリストの尊い命のことです。この世でどのような身分であっても、等しく神の御前にある私たちが、罪を赦され、永遠の命を与えられた神の子として生きるために、御子キリストの尊い命が犠牲として捧げられた。価高い身代金が支払われて、神さまに買い取られた。だから、主を信じる者たちは、この世で奴隷の身分にある者も、自由な身分にある者も、罪と死の力から解き放たれ、真実の意味で自由な者とされたのだということ、またそれは、キリストを主人とする奴隷、キリストの僕にされたということだ、とパウロは語るのです。

しかし、およそ理解し難く思えるのは次の言葉ではないでしょうか。「自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」。コリント教会には、奴隷の身分である自分の人生に思い悩み、その中で信仰に導かれた人がいたことでしょう。自由な身分になること、この世における自分の立場が大きく変わることを願っていた人々にとって、パウロの言葉はどのように響いたことでしょうか。
しかし、「召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません」と述べてパウロは語りかけるのです。この世でどのような立場にあっても、私たちを愛していてくださる主人、イエス・キリストの僕とされた。自分におけるそのことにこそ心を向けよう、と。この自分をどれほど神が大切にお考えくださっているかを知るならば、この世で自分がどのような者であるかを気にするな、とパウロは語るのです。

自由に生きようとしても生きられない奴隷の辛さをパウロが何とも思っていなかった訳ではないでしょう。奴隷としてではなくても、重い病いのために、思うように生きられない辛さを抱えて歩んだのがパウロでした。病いから解き放たれることを願って祈りました。しかし、癒されませんでした。癒されないままの人生を歩んだのです。けれども、パウロは、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリントの信徒への手紙二12章9節)という答えを主から与えられました。そして、病いを抱えた自分のままで、その中でなおキリストの恵みによって自分は強い、と言うことができた人生を歩んだのです。

この世でどのような人生を歩むとしても、私たち一人ひとりに、神がどれほどの愛と恵みを向けていてくださるか。パウロは、自分自身において見ていたものを、私たちにも、しっかりと見るように促しているのだと思うのです。
「あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです」。受難節の中、主が尊い命を私たちのために捧げてくださった。その大きな恵みを心に刻みたいと思います。