日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 83号

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「祝福を受け継ぐ喜び」

― 創世記12章1~9節、ルカによる福音書19章1~10節 ―

前教団総会副議長 伊藤(いとう) 瑞男(みずお)

聖書の冒頭の言葉は、創世記1章1節の「初めに、神は天地を創造された」です。この天地創造の神を信じる信仰は聖書を貫く信仰の基本です。この信仰はどのようにして始まったのでしょうか。それは遊牧民であったアブラハムから始まりました。さらに問えば、アブラハムはどうしてこの信仰を与えられたのか、と思いますが、それは、彼がいつも月星・太陽の輝く大空の下で大地を行き来して生活したからだ、と私は思います。

私は中学1,2年の頃、無数の星が輝いている夜空を眺めた時、永遠を想う気持ちを初めて経験しました。宇宙の底知れない大きさに圧倒されました。そして、自分が何と小さな存在かを知り、神さまはおられるのかと、初めて考えさせられました。この経験から、人は宇宙を絶えず眺めていると、そこから「天地はわたしが造った」という神の声を聞く体験をするのはそんなに不思議なことではないと思うようになりました。   
アブラハムは、さらに、神の言葉を聞きます。「あなたは生まれ故郷、父の家から離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。・・・地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」
「祝福に入る」ことが地上のすべての氏族に及ぶと言うのです。この途方もない約束をアブラハムは信じて、この約束の実現に向かって長い歩みを始めました。この目標が主イエス・キリストに他なりません。

 アブラハムはカナンへの途上で二つのことを身に着けました。一つは、礼拝を守ることです。地面に石を積み上げた祭壇の前で天に向かって祈りました。この礼拝所は後に、テントの聖所、神殿、会堂へと変化していきますが、祈る相手は同じ天地・万物の創造者、イスラエルの主なる神です。もう一つは、この神さまの言葉に従う生活です。それが十戒を中心とする神の戒めを守る生活となりました。

 この十戒の中で皆さんに覚えていただきたいのは、第一と第二の戒めです。第一戒は、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」で、第二戒は、「あなたはいかなる像も造ってはならない」です。天地の創造主なる神以外の神を持たない。また、その神さまを像に形造らない、ということです。この二つの戒めを守る生活はどういう意味を持つでしょうか。
神様は人間が造ったものではないかという疑問を持つ人がいると思います。これは相当に的を捉えた疑問です。なぜなら、事実ほとんどの神々は人間が造ったものだからです。

 偶像礼拝には人々を欺くごまかしがあります。偶像そのものは神ではないことはだれでも知っている。しかし、それをあたかも神であるかのように大勢が拝むとどうなるでしょう。その人々は愚かになり、偽りと真実の区別に鈍感になります。すると大勢が大きな過ちを犯す危険を招くのです。

日本では、つい70数年前までは、天皇を神とするあからさまな偶像礼拝が行われました。その結果、大戦争と敗戦の悲劇を引き起こしました。神の民イスラエルも、紀元前6世紀初め、バビロニア帝国が侵攻して来た時、指導者層、民衆はこぞって神殿を偶像化し、預言者エレミヤの預言に逆らって、バビロニアとの戦争に突入し、国は滅んでしまいました。イスラエルも十戒を守ることができなかったのです。
偶像礼拝をしないとどうなるでしょう。聖書の神様を正しく礼拝する人は、倫理道徳に敏感になります。人間、自分自身、また社会についてよく見えるようになるのです。

十戒を完全に守りきる人はいません。預言者たちもそうでした。しかし、イエス・キリストが神の子として来られ、完全に十戒を守られました。主イエスは十字架の死に至るまで神様に従われたからです。それ故、アブラハムへの祝福の約束は成就されることになるのです。

 私は高校生になると、求道を始め、イエス・キリストの教えに強く惹かれるようになりました。しかし、イエスが神の子であるという教えはよく分かりませんでした。

 数年後、今日のもう一つの聖書の箇所、ザアカイ物語に出会いました。ザアカイはローマ政府のために働く徴税人の頭で大金持ちでしたが、ユダヤ人の仲間からは売国奴と見られ、蔑まれていました。しかし、イエス様はそのザアカイの家に泊まりたい、と申し出られました。金持ちが偉い先生に宿を提供し、周囲の人々を集めて集会を行うことは、最高の栄誉とされていましたので、ザアカイはこの上なく喜びました。そして、立ち上がって「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と申し出ました。それに対し、イエス様は、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と言われました。

 ザアカイを「アブラハムの子」と呼ばれたことに注目しましょう。ユダヤ人ならだれも仲間とは認めない罪人のザアカイを、アブラハムの祝福を受け継ぐべきイスラエルの子孫の一人であると認められ、神の国へ招き入れられたのでした。

 即ち、主イエスは罪を犯した人、この世で落ちこぼれた人も神の国に招き入れられるのです。その恵みを受ける人は必ず悔い改めて、感謝の献げものをするのです。これは、神の子の権威なくしてはできないことではないでしょうか。ザアカイに相対された主イエスのお姿は、ご自身が神の子であることの徴の一つにすぎませんが、それがわたしを信仰へと導いたのでした。
 ザアカイへ与えられた祝福の喜びは私たちにも備えられているのです。

(2018年10月28日秋の伝道礼拝説教より)