日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 85号

教会だより

「悲しみに負けない希望」

― テサロニケの信徒への手紙一 4章13~18節 ―

兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。

                     (テサロニケの信徒への手紙一 4:13~14)

パウロの伝道によってテサロニケの町に生まれたテサロニケ教会の人々の心は、悲しみで満たされていました。共に信仰に生きていた人々の中に、一人また一人と死んでいく者がいる。そのことがテサロニケ教会の人々に悲しみをもたらしていたのです。

パウロは、テサロニケ教会に向けて手紙を書き、悲しみの中にある人々に語りかけました。「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」。ここには、深い悲しみに沈む教会の人々に向けて、「嘆き悲しまないように」と語るパウロがいます。

パウロは、テサロニケ教会の人々が、愛する者の死に接して抱かずにはおれないその悲しみを、決して軽んじていた訳ではないと思います。軽んじてはいないからこそ、彼らの悲しみを放置せずに、手紙を書き、語りかけているのだと思うのです。

悲しみは、時が経てば自然に癒えてその人から去っていくものだとは必ずしも言えません。時が経てば経つほど悲しみが深まるということもまたあるのではないでしょうか。いつか悲しみに、その人の人生が、生活全体が捕らえられてしまう。深い穴の中に落ちてしまった者のように、悲しみから抜け出すことができなくなり、うずくまってしまう。時間は止まる。与えられた人生の時を前へ進めていくことができなくなってしまう。私たちが悲しみに捕らえられる時、そのようなことが起こるのです。

パウロは、テサロニケ教会の人々の悲しみを受けとめた上で、「ぜひ次のことを知っておいてほしい」と語りかけ、こう記します。「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」。

まだ私たちの目が見てはいないものがあるのです。イエス・キリストの救いの御業によって、死んで行った者たちの将来に起こることです。それを、確かな約束の内にあることとして、信仰をもって見るように、まだ目にしていないことが起こる将来をしっかりと見るように、パウロは促すのです。

私は、牧師として歩む中で出会った一人の人のことを思い起こします。病床洗礼を受けてキリスト者となり、一か月後に天に召された方です。しかし、その一か月の間、病床でお孫さんに「神さまをちゃんと信じ ないと駄目だぞ」と言われて、ご家族に伝道されたことを印象深く覚えています。

夕陽に照らされオレンジ色に染まる病室で、その方が言われた言葉を忘れることができません。「私は、ずっと神さまに背くような生き方をしてきました。退院したら、残りの人生の日々、神さまに喜ばれる生き方をしたい」。その翌日の未明に、その方は天へと召されていきました。

死にゆく者の将来を信じ、知ることのない者は、その人が人生最期の時に抱いた願いは、果たされないまま空しく終わった願いだと言うのかもしれません。しかし、主イエス・キリストが十字架にかかられた時、主イエスの隣りで十字架につけられた犯罪人の一人に、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃったように、死にゆく者の将来というものがまたあるのだ、ということを心深く思うのです。

パウロは、悲しみを知らなかった人ではありません。いやむしろ、その地上の歩みにおいて、悲しみの出来事を数えきれないほど経験した人だろうと思います。しかし、だからこそ、そこでなお信じること、主イエス・キリストを通して約束されている、死をも越える神の約束から来る希望を抱いて、パウロは歩み続けたのだと思うのです。目を上げて、神の約束から来る希望をしっかりと抱いて、悲しみに負けないで生きる。パウロは、そのことを、聖書を通して、私たちにも語りかけています