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高井戸教会だより 65号
教会だより
「主の教えを愛して生きる 」
― 詩編 第1編―
牧師 七條 真明
いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。 その人は流れのほとりに植えられた木。 ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。 (詩編1編1~3節b)
「いかに幸いなことか」。このような人は、何と幸いなことだろう! 詩編第1編は、一つの人間の姿、幸いな人間の姿を喜びをもって告げるところから始まります。ここで告げられている幸いとは、どのような幸いであるのか。詩編第1編は、私たち人間には二つの道があって、そのうちの一つの道を行かない者の幸い、まずそのような形で、人間の幸いについて語ります。
「神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず」。神に逆らう者の勧めに耳を貸し、それを実行する者となり、神に対して傲慢になって、自分も一緒になって神を嘲り、侮る者となる。そのような道を進むことの中に、人間の幸いはない。それどころか、その道は、人間をどこに至らせるのか。詩編第1編は、最後の6節において、こう記します。「神に逆らう者の道は滅びに至る」。
しかし、ここにもう一つの道が示されます。「神に従う人の道」です。その道を行くこと、そこにこそ私たちの生きるべき道、真実の幸いがある。詩編第1編は、そのことをこそ語りたいのです。
では、「神に従う人の道」を行くとは、どのように歩むことであるのか。そのことが2節でこう語られます。「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」。「教え」という言葉は、十戒を中心とする律法、あるいは旧約聖書の最初の五つの文書を指す言葉です。しかし、私たちにとっては、新約聖書を含めた聖書全体にわたる御言葉を指すものと受け留めてもいいと思います。
また、「口ずさむ」と訳される言葉は、何かを捜し求めてクークーとのどを鳴らしている鳩の様子、あるいは自分の獲物の上に座り込んで気持ちのよいうなり声を上げるライオンの喜びの声を表す言葉です。つまり、「主の教えを昼も夜を口ずさむ人」とは、神の御言葉を捜し求め、見出し、自分のものとするほどに、御言葉を絶えず思い 巡らして生きる人の姿を指し示しているのです。
「いかに幸いなことか」。詩編第1編は、主の御言葉を愛する人、聖書の御言葉を昼も夜も口ずさむ人間の幸いを告げます。そこに、私たち人間の生きるべき道があることを語ります。御言葉を愛し、御言葉を絶えず口ずさむようにして生きる。そこで与えられる人間の幸いというものがある。いや、そこにしか人間が本当の意味で幸いを得て生きる道はない。詩編第1編は、そのようにさえ語っていると言えます。
そして、御言葉を愛する人間の姿が、豊かなイメージをもって迫ってくるのは、それが、「流れのほとりに植えられた木」にたとえられるところにおいてではないでしょうか。「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて繁栄をもたらす」。
詩編第1編は、水が豊かにある緑豊かな大地を背景として語られているのではありません。ユダヤ・パレスチナの大地、まさに多くは荒れ野と呼ばれるような大地です。しかし、そのような大地の中で、普通であれば枯れ果てるほかない植物が、流れのほとりに植えられることで命を得るのです。そして、「ときが来れば実を結び、葉もしおれること」なく生きる。ここでは、「流れのほとりに植えられた木」ということで、ナツメヤシのことを考えることができるかもしれません。ナツメヤシは十分に実を結ぶまで40年ほどかかるようです。しかし、実を結び始めると、その後150年もの長きにわたって実を結び続けるのです。
「流れのほとりに植えられた木」は、自給自足ではありません。自分を生かす水を、自分の外から得て生きるのです。そうでなければ枯れるほかはない中で、流れのほとりに立つところで水を汲んで生き続ける。やがて、ときが来れば実をつけ、枯れることなく立ち続ける。御言葉を愛し、昼も夜も口ずさむ。その道を行く者は、荒れ野のような世界の中でも、御言葉からの水を得て立ち続けるのです。
詩編第1編には、神の民イスラエルの歴史における経験の反映があると思います。神の言葉を愛して生きるべき神の民が、御言葉に聴くことをやめ、神に逆らう者として生きてしまったことがどれほどあったかということです。しかし、そのような時も、神が、御言葉を通して、どれほど自分たちを神に従う者としての道へ、滅びではなくまことの命を生きる道へと立ち返らせようとしてくださっているかを痛いほど知ることとなったのです。
そのことを考える時、キリスト教会が、古くから、詩編の御言葉の中に、イエス・キリストのお姿を見出してきたことに心が留まります。この詩編第1編が、幸いな人として語る、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」、「実を結び、葉もしおれることがない」「流れのほとりに植えられた木」は、主イエス・キリストご自身の姿であると見たのです。主イエスは、「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネによる福音書15章5節)と言われ、「わたしにつながっていなさい」と言われます。荒れ野のような世界の中で、「流れのほとりに植えられた木」につながって、私たちが実を結ぶ枝となることを願っていてくださるのです。
神の御言葉を愛し、口ずさむ御言葉によって共に生かされたい。主なる神は、私たちが神に逆らう者として歩み続けることなく、そこから立ち返って、神に従う者として歩んでいくことを、どこまでも願っていてくださる御方だからです。