日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 64号

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「お屋根で鳴かずにそれ見てた 」
―詩編22編1節~12節、マタイによる福音書27章45節~56節―

日本基督教団 中渋谷教会牧師 及川(おいかわ) 信(しん)

「所詮他人だもんね」 「それはそうだろうね。だって、所詮他人だもんね。ねーねー、誰か私たちを助けてよ!」  福島の放射能汚染区域に生きる女子高生の叫びです。この叫びは、何を叫んでも、結局、他人事にしか聞いてくれない大人たちに向ってのものです。そこにある孤独、深い絶望を思います。

  「雀のかあさん」 金子みすゞの詩に「雀のかあさん」というものがあります。 「雀のかあさん」 子供が 子雀 つかまへた。 その子の かあさん 笑ってた。 雀の かあさん それ見てた。 お屋根で 鳴かずに それ見てた。

子雀がチュンチュンと声を出せたのか、恐怖のあまり声も出せなかったのか、それは分かりません。でも、子雀は必死になって叫んでいたに違いありません。「わたしの母さん、わたしの母さん、わたしを助けてよ」と。そして、雀のかあさんは、我が子の叫びを聞きながら、「お屋根で 鳴かずに それ見てた」のです。人間の親子の笑い声を聞きながら、自分の子供が無邪気にもいたぶられる姿を黙って見ていた。でも、それが子雀にとっては何よりも大切なことであったと思います。母親は、他人のように見ている訳ではないのですから。出来ることなら身代わりになりたいという痛切な思いをもって、目に涙を浮かべて見ていたのですから。それは決定的なことです。

  「わたしの神」に見捨てられる  この詩を残した人は、自分は「虫けら」のような存在であると思っています。「人間の屑、民の恥」なのです。人々から嘲られ、捨てられるだけでなく、主にも見捨てられ、死の中に打ち捨てられる。「主」は、彼にとって「母の胎にあるときから、あなたはわたしの神」と言う他にない神様なのです。その主なる神様に見捨てられる。「呻きも言葉も聞いてくださらない」と思わざるを得ない。しかし、この詩の作者は、ひたすらに「わたしの神よ、わたしの神よ」と叫び続けます。「なぜ、なぜ」と叫び続ける。「誰か私を助けて」ではない。助けてくださるのは「主」しかいないのです。神様は、彼にとって「所詮他人」ではない。自分のことを愛して止まない方なのです。その愛が見えなくても、その愛が分からなくても、でも愛してくださっている方なのです。そのことを信じているから、彼は叫ぶのです。

  わが神 わが神  イエス様の十字架の下では人々の嘲りの声が満ちています。その時、昼の十二時なのに、「全地は暗くなり、それが三時まで続いた」とあります。その闇と沈黙を引き裂くように、主イエスの叫び声が響きます。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」

 神様はこの叫びを聞いています。このように叫ぶ愛する子を天から見ています。でも、助けない。愛しているから。愛しているから、復活の命を与えるのです。死者からの復活の初穂とするために十字架から降ろさない。死の闇の中に命の光を輝かすために、神様は沈黙する。でも、十字架のイエス様の姿が、神様の愛、その全能の力を証しているのです。 その神様に対する応答が、イエス様を直接十字架につけた百人隊長たちの告白でしょう。

「本当に、この人は神の子だった。」  ここにキリスト教会の礼拝の出発があるのです。私たちは毎週、私たちの罪の赦しのために、そして新しい命を与えるために十字架に掛かって死んでくださった主イエス・キリストを仰ぎ見て、「この人こそ神の子、キリスト、救い主です」と証をし、信仰を捧げ、神様の愛と栄光を賛美しているのです。それが私たちの礼拝であり、それが私たちの伝道です。 復活のイエス様はガリラヤの山の上で弟子たちに語りかけたように、今日の私たちに「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と語りかけてくださるのです。もう私たちは「ながき道を独りで歩く」(讃美歌Ⅱ編140番)ことはありません。イエス様を「生ける神の子・キリスト」と信じる者は、どんな惨めな時も「わが神、わが神」と祈ることが出来ます。イエス様は、共に祈りつつ神様に執り成してくださるのです。だから、すぐに具体的に助けられなくとも、最早、見捨てられてはいないのです。

神様は御子を通してこの世に下り、陰府にまで下り、そして、今、御子を通して、私たちの苦しみも悲しみも、喜びもすべて共にしてくださっている。そして、私たちを御国に招き入れてくださっているのです。今日、この礼拝に招かれたすべての方が、イエス・キリストを信じて、今日からの歩みを始めることが出来ますように祈ります。(2014年2月16日特別伝道礼拝説教より)