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高井戸教会だより 63号
教会だより
「飼い葉桶のキリスト 」
―ルカによる福音書2章1節~7節―
七條牧師
毎年、高井戸教会の教会学校ならびに幼稚園のクリスマス礼拝において、子どもたちによるペイジェント(キリスト降誕劇)が演じられます。そこには、イエス・キリストのご降誕を巡る出来事として聖書が伝えるいくつかの場面が出てきますが、それらが収束するように向かっていくのは、飼い葉桶に寝かされた赤ちゃんであるイエスさまの周りに皆が集まり、神をほめたたえ、救い主のご降誕を祝う、という光景です。
皆が最後に集まるのは、家畜小屋です。当然のことながら、決してきれいな場所ではありません。赤ちゃんが生まれてくるのにふさわしい場所とは言えません。なぜ主イエスは家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に身を横たえることになったのか。その理由を、短い一文で聖書はこう記します。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」。
ヨセフと身重であったマリアの夫婦。人口調査が行われた年、今であれば本籍がある場所に行く必要があって、彼らはベツレヘムへと赴いたのでした。しかし、同じようにベツレヘムにやって来ていた人たちで町は溢れかえっている。既にどこの宿屋も客が満員の状態であったので、ヨセフとマリアの夫婦は、恐らくどこかの宿屋の家畜 小屋に泊まることになったのです。
ペイジェントで、宿屋の主人は誰もがなりたがる役ではありません。宿屋に泊めることを拒む役だと言えます。しかし、宿屋の主人は人一倍意地悪な人であったということでしょうか。いや、他では断られたところを、家畜小屋でもよかったら使いなさい、と言ってくれた唯一の宿屋の主人であったのかもしれません。そして、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」というのは、宿屋の主人だけに関わることではないでしょう。宿屋の客の中には、妻が身重である夫婦のために、自分の部屋を譲る者はなかったということでもあります。「私たちだったら」と思うところかもしれません。しかし、そうでしょうか。誰もが自分のことで精一杯、そんな余裕などなかった。私たちもまたその場にいて、ヨセフとマリアの夫婦のために「自分たちは家畜小屋でもよい」と申し出られたのかと考えれば、そうではなかったであろうと思います。
そして、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」と聖書が語ることは、ヨセフとマリアが泊まる場所がなかった、ということを表しているだけではありません。救い主を迎え入れる場所がこの世界にはなかった。御子キリストを迎え入れる人間は誰もいなかった。そのことを表しているのです。ヨセフやマリア、また飼い葉桶のキリストにお会いした羊飼いや東方の博士たちが例外であったとは言えません。彼らは、ただ神によって、クリスマスの出来事に巻き込まれるようにして、その出来事の証人となったのだからです。
ある方が書いた文章の中に、その方がある年のクリスマスにもらったカードのことが紹介されていました。飼い葉桶の中に十字架が置かれている、そういう図柄のカードです。救い主キリストが家畜小屋でお生まれになり、飼い葉桶に寝かせられた。そのことは既に、この赤ちゃんがやがて十字架にかかって死ぬ、十字架の救い主となられることを表している。飼い葉桶の中に十字架が置かれた図柄のクリスマスカードは、そのことを表しているのだと思います。
神の独り子は、飼い葉桶に生まれ、十字架にかかる救い主となる、そのことを良しとして来てくださいました。神の御子は、低く低く私たちのところへ降って来られました。自分のことで精一杯、余裕などない。そういう小さな心しか持っていない私たちのもとまで降って来てくださったのです。
私は、森有正という方が語った言葉を思い起こします。「人間というものは、どうしても人に知らせることの出来ない心の一隅を持っております。…どうしても他人に知らせることの出来ないある心の一隅というものがあります。そこでしか、神さまにお目にかかる場所は人間にはない。…人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、恥じている。しかし、そこでしか人間は神さまに会うことはできない」。自分で自分が嫌になる。悩んでいる。暗い心の部分を抱えている。でも、そこでしか人間は神さまに会うことはできない。いや、こう言ってもいい。そのような小さな心、罪を抱えた暗い心の一隅、そこで神さまは私たちに出会われる。
救い主は、誰にも迎え入れられることのない世界で、汚い家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かせられた。そのことを良しとしてお生まれくださった。それは、神がご覧になる時、汚い家畜小屋であり、飼い葉桶でしかないような心を抱える私たちのために、主イエス・キリストは来てくださったということです。
「自分の人生においては誰もが主人公」、そのような言葉を、時折いろいろなところで耳にすることがあります。しかし、私はその言葉に触れる度に、本当にそうかなといつも思わずにはおれません。そんな絵に描いたような人生を送る人などいるのでしょうか。むしろ、誰もが脇役のような人生を生きるのではないでしょうか。
マリアの人生は、確かに特別な人生かもしれません。しかし、その特別さは、家畜小屋に生まれ、飼い葉桶に寝かせられた救い主キリストがおられてのことです。ヨセフ、羊飼いたち、博士たち、そして宿屋の主人も、他の役も、クリスマス・ペイジェントには欠かせない役です。クリスマスの救い主、飼い葉桶のキリストを中心とする時、どんな脇役のような人生にも確かな意味が生まれるのです。主イエス・キリストが、私たち人間が生きる人生の本当の主人公として来てくださった方だからです。
ルカによる福音書 2章1節~7節 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ 上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。