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高井戸教会だより 62号
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「誘惑に陥らないように祈りなさい」
― ルカによる福音書22章39節~46節 ―
牧師 七條(しちじょう) 真(まさ)明(あき)
ルカによる福音書は、主イエス・キリストの祈りのお姿を、いくつもの箇所に記しています。 第22章39節~46節にも、主イエスが十字架を前に激しく祈られた祈りのお姿が記されます。 主イエスが十字架を前にしてなさったこの祈りのお姿は、他の福音書も記しているものですが、 ルカ福音書もまた、祈りつつ十字架への道を歩み進まれた主イエスの地上のご生涯における大事な祈りの場面として記すのです。
「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った」(39節)。 「いつものように」と記されます。文字通り訳すならば、「習慣に従って」と訳せる言葉です。 第21章37節に次のような言葉がありました。「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、 夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた」。 主イエスがエルサレムにおいて、日中は神殿の境内で人々に教えを語られた日々、 夜はオリーブ山で祈りつつ過ごされたということでしょう。 主イエスは、十字架を前にして、弟子たちと食事をなさったその夜も、 いつものように祈るためにオリーブ山へと向かわれたのです。 しかし、主イエスがこの時なさった祈りがどれほど激しいものであったかは、44節に示されます。 「イエス は苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」。
そのような激しい祈りをなさった主イエスの傍らには、弟子たちの姿がありました。 オリーブ山についた時、主イエスが弟子たちに言われた言葉が40節に記されます。 「いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた」。 46節にも、主イエスが弟子たちに語りかけられた、「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」 という言葉が記されています。ご自身、絶えず祈りつつ地上の歩みをなさった主イエス・キリストは、 ご自身に従う道を行く弟子たちに、「祈りなさい」と祈ることをお命じになった方です。
私たちも主の教会に生き、主の弟子として歩む者たちであることを思うとき、 私たちの日々の生活における祈りは、一体どうなっているだろうかと思います。 いつものように祈る。毎日の習慣に従って祈る。そのように、祈ることが身についた私たちの歩みであるか。 毎朝顔を洗うとか、何曜日には必ず行く場所があるとか、そのような習慣はあっても、祈りの習慣はどうなっているのか。 主イエスが、絶えず祈りつつ地上のご生涯を歩まれた方として、弟子たちに「祈りなさい」と言われる御声を聴く時、 私たちは自らの姿を省みずにはおれません。
「誘惑に陥らないように祈りなさい」。そう言われた弟子たちはどうしていたのか。45節に記されます。 「イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた」。 主イエスがそこに見出されたのは、眠り込んでいる弟子たちの姿でした。なぜ弟子たちは眠り込んでいたのか。 その理由を、ルカ福音書は「悲しみの果てに」と記します。彼らが眠り込んでいたのは、悲しみのゆえであったというのです。
私たちは、人生において、どれほど多くの悲しみと出会うことでしょうか。 主イエスを信じ、弟子として従う道にあっても、悲しみを覚えずにはおれない時があるのです。 そこでしばしば起こることは、悲しみに捕らえられてしまうことです。誰もこの悲しみを分かってはくれない。 神さまにだって分かりはしない、そう思うことさえ起こるのです。その時、私たちは祈れなくなります。神 の方を向くことができなくなります。祈らなくなるその中で、まさに誘惑に陥ります。神を信じて歩むことができなくなる。 主の弟子として歩むことをやめる誘惑の中に、自ら足を踏み入れるのです。
しかし、だからこそ、私たちは知らなければなりません。 主イエスが、この時どれほど深い悲しみの中に身を置いておられたのかということを、です。 私たちの悲しみがたとえどれほど深かったとしても、それよりも遥かに深く大きな悲しみの中で、 主が苦しみもだえ祈っておられた。弟子たちが、誘惑に負けて祈ることができず、 信仰の心が眠り込んでしまっていた時に、激しく切実な祈りを、一人オリーブ山で捧げてくださっていた主イエスがおられるのです。
主イエスは祈られます。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。 しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。 主が「取りのけてください」と祈らずにはおれなかった「杯」とは何でしょうか。 それは、私たち人間の罪に対する神の裁きを、罪なき神の御子がその身に受けて死なれる、 十字架の死です。全人類の罪を背負って神に裁かれて死ぬという、 地獄の深淵を目の前にするような恐ろしさと主イエスは向き合っておられました。 まさに主イエスこそ、誰も理解できないほど大きな苦しみの中で、途轍もなく深い悲しみを抱えつつ祈っておられたのです。
主イエスは祈りによって戦っておられました。御心に生きるための戦いです。 私たち人間に、眠りこけてしまっている弟子たちに、罪の赦しが与えられ、 私たち人間が地獄の深淵を見ないですむように十字架へと向かう、 そのための祈りの戦いが人知れずなされていたのです。 そして、主イエスは、誰よりも深く大きな悲しみに負けることはありませんでした。 その戦いに勝ってくださった。だから、ここから十字架へと赴いて行かれた。弟子たちのための、私たちのための十字架が立ったのです。
主イエスは「祈り終わって立ち上がり」、眠り込んでいた弟子たちに、「起きて祈っていなさい」と言われました。 「立ち上がる」「起きる」。これらは、主イエスが十字架の死を経て復活なさった、 その「復活する」という意味の言葉として使われる言葉です。
「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」。 教会に生きた者たちは、ルカ福音書を通してこの主イエスからの語りかけを聞くとき、 そこに次のような響きを聴き取ったのではないでしょうか。 主イエスのよみがえりの命を与えられた者として立ち上がれ。 あなたたちも悲しみに負けない者として祈れ。そのことによって、誘惑と戦え。
十字架に死に、復活された主イエス・キリストによる救いの恵みは、最も深いところから私たちの歩みを支え続ける恵みです。