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高井戸教会だより 61号
教会だより
「<出会い>を造り出す神」
― 出エジプト記 3章1~10節 ガラテヤの信徒への手紙 1章13~17節 ―
前東京神学大学学長 近藤(こんどう) 勝彦(かつひこ)
「出エジプト」の出来事は、イスラエルの民が重い苦役に苦しめられた状態を背景にしています。 イスラエルの民はヤコブとその子らの時代にエジプトに寄留し、数を増しました。 ヤコブの子ヨセフが大飢饉の中、エジプトの食糧政策を指導し、飢饉を乗り越えたからです。 しかしヨセフを知らない王が出現し、イスラエルの民に対する圧制が始まり、民は苦難に喘ぎました。
救いの出来事は、エジプトから遠く離れた密かな場所で一人の人物を神がお召しになることによって始められました。 聖書はその人物と神の出会いを記します。私たちもいま礼拝に身を置いて、神と出会う場にいます。 聖書が伝える神と出会うとき、救いの御業が見えてきます。神が召したモーセはやがてイスラエルの民をエジプトから導き出します。
しかし聖書は、その救いの出来事をモーセの偉大さの中に見ていません。ただ彼を捉えた神がおられ、そこに出発があったと語っています。 「モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、 あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た」。 モーセはかつてエジプトで重労働に苦しむ一人の同胞を助けようとして、エジプト人を殺害した過去を持っています。 モーセは命を狙われ、恐怖のあまり他国に亡命しました。しゅうとの羊を追うモーセには、同胞救済の理想に燃えたかつての姿はありません。
野心も理想もなく、羊を飼う毎日の生活にいます。日々の生活に満足していると言ってよいでしょう。 ただ羊に餌を与えるため、その日荒れ野の奥に羊の群れを追っていっただけです。 何かのついでに教会を訪ね、礼拝の中に加わったようなものかもしれません。 神との出会いは神の方からやってきました。「燃えているのに燃え尽きない柴」は謎です。
「火」や「炎」は「神の臨在」のしるしでしょう。イザヤの召命記事にも、「祭壇には燃える炭火」がありました。 重要なのは、出会いを求め、意志したのは神であり、神がモーセを求めたということです。 私たち人間は本気で神を求めることをしません。漠然と何かを求めるとしても、まことの神に近づこうとはしないでしょう。 「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう」。 日常生活をそれて、人生の意味を問い直し、日常性に疑問を懐くのは、無意味ではないでしょう。
密かな場所に退くことも無駄ではないと思います。 しかし、それで神に接近できるわけではありません。神は近づきがたい方です。 近づきがたいだけでなく、近づくことの不可能な方、真実の神は「聖性にいます神」です。 神の臨在が燃える火、焼き尽くす炎で示されたのは、神のこの近づきがたい聖性を表わしています。
今朝の聖書が伝える重大な点で、日本人一般の神観念とは違っています。 「台所の神様」や「相撲の神様」ではありません。 人間にはおよそ近づくことのできない方、顔を合わせて神を見るなら、人間は生きることはできないと言われます。 しかしその聖性におられる神が、神御自身の方から<出会い>を造り出してくださる。そう聖書は告げます。
神はモーセを御覧になり、声を掛けられたとあります。モーセの名を呼び、語り掛けます。 「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい」。 履物を脱いで相手に渡すのは、自分の権利を相手にゆだねることを意味します。 モーセは「神を見ることを恐れて顔を覆った」とあります。ユダヤ教のある哲学者は書いています。
「本当に神に祈った後でなお生きているのは奇跡である」と。 神との出会いは、近づくことのできない神に知られ、語り掛けられ、神から近づかれる経験です。 神が聖なる神であることと共に、その神が御自身の方から近づいて来られる。これがもう一つ重大な点です。 神との出会いはすべて神の先手からはじまっています。使徒パウロははじめキリスト信者を迫害していました。 しかしそれ以前に神は彼を選び、敵であった彼を召し、キリストをお示しになったのです。
私たち信仰者の誰の場合もそうです。 神が先手を打ってくださるとき、「神の言葉」が重大な役割を果します。 神との出会いは、顔をもって見る出会いではありません。顔を覆って、御言葉に聴く出会いです。 御言葉を通して、神の御心と御業を知らされます。それが真の神との出会いになります。神の救いが分かってきます。
神は言われました。「エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見た」。 「追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫びを聞き、その痛みを知った」と。 また「イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた」。 「エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た」とも言われます。
まことの神は近づきがたい聖性の中にあって、ご自分の民を見、叫びを聞き、その痛みを知ります。 苦しむ民のところに「降って行く」と言います。「聖性にいます神」が身を低くされ、その民の救いのために降ってこられる。
それによって壮大な救いの出来事が起きます。神が身を低くする。 このことが主イエスの誕生において、御生涯において、とりわけ十字架において、事実になりました。
人間の苦難も、罪の現実も変えられ、神との出会いの場とされました。 近づきがたい方が身を低くして近づいてくださるとき、壮大な救いの出来事が開始されます。
礼拝の中で御言葉を聞くとき、聖なる神が身を低くして近づいてくださいます。 そのことによって私たちの今日の現実の中で神との出会いが与えられ、私たちも壮大な神の救いの中に入れられます。
(2013年3月17日特別伝道礼拝説教より)