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高井戸教会だより 60号
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「神の愛による勝利」
― ローマの信徒への手紙 8章31節~39節―
牧師 七條(しちじょう) 真(まさ)明(あき)
「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。
死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、 わたしたちのために執り成してくださるのです」(34節)。
伝道者パウロが書いたローマの信徒への手紙は、主イエス・キリストを信じる信仰によって 私たちは救われるという「信仰義認」の教え、イエス・キリストの福音の最も中核にあるものを鮮やかに示す手紙です。
しかし、パウロの言葉に触れる時、改めて思わされることがあります。 それは、パウロが語っていることは、「教え」という言葉でイメージされるものというより、 もっと私たちと確かな形で向き合っているもの、いやこの自分を包んでいる、 自分を捕らえて離さない現実として語られているものだ、ということです。
パウロは、この手紙において、神の御前に、根源的な罪を抱える存在になった私たち人間のために、 神が御子イエス・キリストによる救いの道を開いてくださったことを語っていきます。 そして、第8章31節以下には、高らかに歌い上げるような口調で記している部分が現れます。 「パウロの勝利の歌」などと呼ばれたりする箇所です。
「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、 だれがわたしたちに敵対できますか」(31節)。
パウロは、神が私たちの味方であること、そして、そうであれば、 一体誰が私たちに敵対することができるだろうか、と語ります。 神が、御子キリストを通して、御自ら私たちの罪を償ってくださり、罪から救ってくださる。 そのような救いの出来事を成し遂げてくださったからには、一体何が、私たちを愛してくださる神のその愛から、 私たちを引き離すことができるだろうか。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
いや何も引き離すことはできない。そして、「わたしは確信しています」と38節で語るパウロは、 「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、 わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。 そう力強く語るのです。まさに「パウロの勝利の歌」というにふさわしい、 神の愛の勝利を宣言し、歌い上げる言葉がここにあります。
あの東日本大震災から2年が経過しました。しかし、今なお地震が起こる度に、 あの時の地震の記憶が呼び起こされてきます。もっと大きな地震が起こる可能性があることも報道されます。 そのような時、あの震災の記憶と共に、私たちの心の中に、「どんなものも、神の愛から引き離せない。それは本当か?」、 どこからかまたそのような思いが湧いてくることをも、また思わずにはおれないのではないでしょうか。
しかし、ある方が書いた文章を読んで、私は頭を殴られるような思いがしました。 その文章には、信仰問答の一つである「ハイデルベルク信仰問答」の問27と答えが引用されるのです。
神の摂理についての信仰を問う部分です。 「問27 神の摂理とは、何である、と思いますか。」 「答 それは、神の全能なる、今働く力であります。その力によって、神は、天と地と、 そのすべての被造物をも、み手をもってするごとくに、保ちまた支配してくださり、木の葉も草も、 雨もひでりも、実り豊かな年も実らぬ年も、食べることも、飲むことも、健康も病気も、富も貧しさも、 すべてのものが、偶然からではなく、父としてのみ手によって、われわれに、来るのであります。」
ここには、私たちをたじろがせるような答えがあるのではないでしょうか。私たちは、実り豊かな年、 そのための雨、健康、富、それを神からの恵みとして感謝することがあるかもしれない。
しかし、雨だけではない、ひでりも、実り豊かな年だけではない、実らぬ年もある、 そのこともまた、神のみ手によって私たちに来る。健康や富を神さまから受け取るだけではない。 病気や貧しさも、神さまから受け取る。そういう信仰、摂理の信仰というべきものが、 キリスト者、信仰者として歩んでいる私たちにどれだけあるだろうか。
この信仰問答の答えを前にしてそう思わされるのです。 悪いことが起こる。それで、簡単に神さまを疑う、問う。そうやって簡単に信仰が揺らいでしまう。 私が読んだ文章を書いた人は、ハイデルベルク信仰問答が語る摂理の信仰についての言葉を引用しつつ、 震災によって問われているのは、私たちの「信仰の実力」だと言うのです。
神を信じ抜く。何があっても信じ抜く。そういう信仰の実力が私たちにあるか。 そのことが問われているのではないかと言うのです。
私たちがキリストを信じ、洗礼を受けてキリスト者となって歩んでいくということは、 まさに、キリスト・イエスに示された神の愛の中に飛び込むようにして歩んでいくことであることを思います。
生きる時も死ぬ時も、喜びも悲しみも悩みもみな、主イエス・キリストにお委ねして歩んでいく。 神の愛は大きい。私たちの悩みや不安を超えて大きい。私たちは、神の愛から引き離されない。 そのことを単純に信じる。ただそのことに依り頼んで生きて行く。歩んで行く。 どこまでも、どんな時も。実力ある信仰、力ある信仰とは、それ以外の何物でもないことを、今思います。