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高井戸教会だより 59号
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「ここに愛があります」
– ヨハネの手紙一4章7節~12節-
牧師 七條(しちじょう) 真(まさ)明(あき)
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」。 ヨハネの手紙一第4章7節~12節は、結婚式が行われる際に、私がよく選ぶ箇所です。
それは、愛の源がどこにあるかを私たちに語ってくれている箇所だからです。 この箇所において、繰り返し語られる「愛」と訳される言葉は、 もとの言葉では「アガペー」という言葉(またそこから派生した動詞等)です。
「アガペー」が意味するのは「無償の愛」、つまり相手から何かが結果として返ってくるかどうかということにはよらない愛です。 相手が自分にとってどれほどの価値を持つかどうか、そういうことによらない愛だとも言えます。 そんなアガペーの愛をもって誰かを愛するなんて、私たち人間にはできない。聖書が語る「愛」が何かを知ると、 誰もがそのような思いを持たずにはおれません。
しかし、よく考えれば、私たちが生きる上で、誰かと一緒に生きていく上で、 どれほどこのアガペーの愛に生きるということを、私たちは日々必要としているでしょうか。 まさに愛し合って結婚する若い男女が、5年、10年、あるいはそれ以上の時を一緒に生活していく。 結婚した頃のあの愛はどこに行ったのか、と誰もが思います。
だからと言って、愛なしで夫婦として生きることはできません。 形としては可能であったとしても、愛し合う関係としての夫婦は成り立ちません。 そして、アガペーの愛に生きることを私たちが必要とするのは、夫婦の間においてだけではないことを思います。 年老いた親との関わりにおいて、こちらがしたことに対する反応をもはや期待することはできないような時、 まさにアガペーの愛に生きるということが必要になります。
子どもとの関わりにおいても、そうでしょう。親が子どもに対して日々注ぐ愛に対して、 将来子どもが感謝し、親が思い描くとおりの姿に成長するかどうかは分かりません。
それでも、今注ぐべき愛があることに変わりはないのです。 しかし、このように考えれば考えるほど、現実には、子ども、夫や妻、あるいはそれ以外の誰かに対して、 自分が日々していること、今まで自分がしてきたことを心密かに計算し、見積もりながら、 それに対する結果や見返りをどこかで相手から期待している私たちがいることを思わずにはおれないのです。
結果には関係ない、自分がなすべきこととして当然の愛を注ぐ。 そのようなところにあなたは生き得ているか、と問われれば、とてもそんな風に言うことはできない。それが私たちの姿です。 けれども、まさに、アガペーの愛に生きることを必要としながら、 アガペーの愛に生き得ないという私たちに、聖書の御言葉は語りかけるのです。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」。アガペーの愛をもって互いに愛し合おう、そう語りかける。 そこでなされる呼びかけの言葉はこうです。「愛する者たち」。 けれども、この言葉は意味合いから考えれば、むしろこう訳してよい言葉です。 「愛されている者たち」。アガペーの愛で愛されている者たち、そのあなたたちに呼びかける。 アガペーの愛で愛し合おう。そう語りかけられるのです。
あなたは愛されている。あなたが周囲のあの人この人によってそうだと言えなかったとしても、あなたは愛されている。 自分にどのような価値があるか、そんなことによらないアガペーの愛で愛されている。聖書は私たちにそのことを告げるのです。 誰によってか。神によってです。では、この自分に向けられた神の愛、 神によるアガペーの愛をもってこの自分が愛されていることはどこに見えてくるのか。
そのよに問う私たちに聖書はこう答えるのです。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。 その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、 わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。 「ここに愛があります」。ここに愛がある。あなたへの神の愛が見えてくるところがある。 「ここに」と言って、聖書が私たちに指し示すのは、家畜小屋の飼い葉桶の中に寝かされた赤ちゃんです。
神が、そのようにして独り子キリストをこの世にお遣わしになった、そのクリスマスの出来事においてです。 アガペーの愛をもって生き得ない私たち人間が、神のアガペーの愛によって生きるようになるためです。 私たちがアガペーの愛を知るために、十字架に命を献げる救い主として神が大切な独り子をこの世に送ってくださった。 神の愛の確かなしるしが、ここにある。クリスマスに、貧しく低くこの世に来られた神の独り子の中に見えてくる。
ここに注がれた神の愛、あなたに注がれている愛を知らないままでいてほしくない。 忘れないでいてほしい。聖書はそう語りかけるのです。 将来が見えない時代です。私たちが日々生きること、そこでなすことの手応えや結果や見返りなど見えにくい時代です。 だからこそ、誰もが愛に飢えています。表では平然としていても、心では深く深く愛に飢え渇いている私たちがいます。
しかし、そのような時代に生きる私たちに、今年もクリスマスがやってくるのです。 この私にも神の変わらない愛が注がれている。
そして、この自分と日々を共に生きる者たち一人ひとりを、神が変わらない愛をもって愛すると言われている。 だからこそ、聖書はこの時も、私たちに語りかけるのです。
「愛する者たち」、いや「愛されている者たち、互いに愛し合おう」。
神のアガペーの愛にしっかりと支えられる時、あなたもアガペーの愛に生きられる。生きよう。そう呼びかけるのです。