日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 58号

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「主イエスがもたらされたもの」
– ルカによる福音書12章49節~53節-

牧師 七條(しちじょう) 真(まさ)明(あき)

イエス・キリストを宣べ伝えたパウロは、捕らえられた牢獄の中から、天を見上げながら、 私たちに語りかけます。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」。そのように始まるルカ福音書第12章49節~53節には、 私たちがどう受け止めたらよいか戸惑いの思いを抱かずにはおれない主イエスの御言葉が出てきます。 特に51節以下がそうでしょう。

「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」。 私たちの心の内には、主イエス・キリストこそ平和をもたらしてくださるために来られた御方だ、との思いがあります。 けれども、そのような私たちの思いを、当の主イエスご自身が真っ向から否定しておられるように思える言葉がここにはあるのです。

私たちは改めて問わない訳にはいきません。主イエスがお生まれになった時、天の軍勢が現れて、夜空に放たれた讃美の声は、 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と歌いました。 天の軍勢が、主イエスのご降誕に深く関わることとして「地には平和」と言ったことは明らかです。 ここでも、主イエスの到来と共にやってくる「平和」が語られているじゃないか。私たちは、そう思う。

また、主イエスは、病人を癒された後、しばしば「安心して行きなさい」と言われました。 これは「平和のうちに行きなさい」という言葉です。主イエスご自身が、「平和のうちに行け」とお語りになったのです。

さらに言えば、ルカ福音書は、新約聖書の中で最も多く「平和」という言葉が出てくる文書なのです。 にもかかわらず、なぜ、ここでは、主イエス自らそのことを否定なさるようなことを語られるのでしょうか。

しかし、ここで私たちこそが問われているのだと思うのです。 私たちは、聖書が語っている「平和」を本当に知っているのか。 主イエスが到来されて、私たちのもとにやってきている「平和」とは何だと思っているのかということです。

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」。火は、それに触れるものを焼いてしまうものです。 主イエスも、何かを燃やすために来られたのでしょうか。また、主イエスが「火」ということで言われているものは何なのでしょうか?

聖書が、「火」という言葉で言い表すものの一つは、裁きの火です。世の罪を燃やす火、罪ある者を焼き尽くす火です。 主イエスが、「火」という言葉を用いて言われることも、裁きと深く関わることは確かです。

罪ある者を焼き尽くす火を投じる。そうだとすると、なぜそのような火を投じるために来られた主イエスが、 この箇所以外では「平和」と結び付けられて語られるのか、ますます分からなくなるかもしれません。

しかし、私たちは知らなければならないのだと思うのです。聖書の語る「平和」が、救い主の到来による福音、 よき知らせとの関わりにおいて語られるのは、真実の平和が人間によって作り出せるものではないからです。

私たちは、歴史を見る時に、私たちが考えている「平和」というものがどれほどもろいものであるかを痛いほど知るのではないでしょうか。 そのことは、世界の平和、一つの国における平和ということにとどまらないでしょう。 たとえば、一つの家庭における平和ということでも、何か事が起こればいとも簡単に崩れてしまうようなもろさを抱えている、 そのことを誰もが感じる時があるのではないでしょうか。

主イエスがここで否定しておられるのは、そのような、私たち人間が自分たちの手で作り出せると考えている平和です。 何か事が起これば簡単に揺らぎ、崩れ去ってしまうのに、そこに平和があると私たちが考えているような、偽りの平和です。

神なきところで真実の平和は生まれません。にもかかわらず、神なしでも平和を築けると思い込み、 神に背を向けて歩み続ける私たち人間のもとへ救い主キリストは来てくださいました。 本来であれば、罪のゆえに、神の裁きの火に焼かれ滅びずにはおれないはずの私たち人間が、 滅びてしまうことがないようにと、主イエスは十字架にかかられ、ご自身が持って来られた裁きの火で、 私たちに代わってご自身の身を焼き尽くすようにして死んでくださいました。

その死があるからこそ、主イエスがこの地上にもたらされた裁きの火は、私たちをまことのいのちに生かす火となったのです。

主イエスを信じ、洗礼の恵みにあずかることは、主イエスが私たちと結びついてくださることです。 主イエスとの結びつきは、私たちをありのままにしてはおきません。洗礼は、古い自分の死を意味する。 罪の中に平然と生きていた自分が、主イエスとの結びつきの中で火で焼かれるように死ぬのです。 それは、この御方がもたらしてくださる新しいいのちの中に生きる者とされるためです。

主イエスは、ご自身との結びつきが、親しい家族との間にも分裂をもたらす結びつきであると明言されます。 しかし、この分裂は、分裂のための分裂ではないのです。 主イエスとの結びつきによる分裂を通してしか生まれない真実の平和、揺るぎない平和が、この地上にもたらされるためです。 主イエスとの確かな絆によって生きる者が一人また一人と生まれる中でこそ、偽りの平和ではない、真実の平和が生まれてくる。

この地上に真実の平和をもたらすために、主イエスは来てくださいました。主イエスを信じて歩む道は、真実の平和の中に生きる道です。