日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 66号

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「 恵みの時、救いの日 」
― コリントの信徒への手紙二 第6章1~2節 ―

牧師 七條 真明

「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(第2コリント6:1~2)

地中海世界にイエス・キリストを宣べ伝え、各地に教会を建てたパウロの働きは実に驚くべきものです。彼をそのような歩みへと促したものは何であったのか。それは、目に見えるすべてのものを押し流すような時の中で、過ぎ去ることなく彼を捕らえ続けている神の恵みであった。パウロの歩みは、自分に与えられた神の恵みがどれほど大きなものかを見出し続ける、そのことに突き動かされての歩みであったと思います。

パウロは、彼の伝道によりコリントの町に生まれた教会に宛てて記した手紙において、このように書き記します。「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます」。パウロは自らのことを「神の協力者」と呼びます。イエス・キリストを宣べ伝える自分の歩みが、私たち人間を救う神の御業のために、神と共に働く者として用いられている歩みだと言い表すのです。けれどもパウロは、その恵みが自分だけに与えられている特別なものだと誇っているのではありません。コリント教会の人々にも同じように与えられている恵みであることを、パウロはしっかりと見ているのです。だからこそ、パウロは次のような勧めの言葉を語りかけます。「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」。

この時のコリント教会には、パウロが去った後にやって来た、誤った形で福音を宣べ伝える伝道者たちの影響が及んでいたと言われます。その伝道者たちは、自らの外面を誇り、自分たちと同じように生きることが救いの条件ででもあるかのように語ったらしいのです。そのことが教会の人々の目を曇らし、パウロが語った福音、自分たちに与えられた神の恵みを見えなくさせてしまっていた。コリント教会が陥った問題は、私たちと無縁なものだとは思えません。私たちもまた、どれほど繰り返して神の恵みが見えなくなることでしょうか。何をやってもうまく行かず、辛いことが重なる中で、「神の恵みなんて一体どこにあるのか」と思い始める。逆に、何の問題もなく歩むことができる状況の中で、「神の恵みなどなくても生きていける」、そう思い始めることもあります。しかし、どちらの場合にも、そこに神の恵みがないのではなく、不幸なことが続く中でなお自分を支え続けている神の恵みを、あるいは何の問題もなく歩むことができている中に注がれている神の恵みを、見ることができなくなっているということなのではないでしょうか。

今年の夏、自由研究でビーチグラスについて調べたいと言う長男と三浦半島のある海岸へ行きました。海に捨てられたガラスの瓶が砕け散り、その破片が波に洗われて角が取れ、丸みを帯び、綺麗なガラスの石となる。それがビーチグラスです。海岸を歩くと、次から次にさまざまな色のビーチグラスが見つかりました。改めて考えると不思議なことです。幼い頃から海には何度も行った。しかし、その時には存在も知らなかったものが足もとに落ちていたということです。ただのガラスと言ってしまえばそれまでです。しかし、それがビーチグラスと名付けられているものだと知り、改めて海へと向かい、足もとを見れば、確かにキラキラしたガラスの石がいくつも落ちているのを発見する。今までは、それが足もとにあっても見えてはいなかったのです。

ひとたび自然の災害か何かが起こるならば、自分に明日という日が確実にあるとは言えない。今日、自分が生きているということも自明のことではなく、恵みの中で生かされているのだということを思います。それは、そのことに気付いた瞬間から存在し始めた事実ではありません。それまでも私たちの人生の岸辺に、私たちの足もとにあった事実です。しかし、そのことに気付かない。何度となく私たちが繰り返す歩みです。ただ、パウロが、「神からいただいた恵みを無駄にするな」と語るところでの恵みとは、私たちの歩みを日々さまざまな恵みをもって支えていてくださる神が、御子イエス・キリストの命をもって差し出してくださった救いの恵みを、何よりも語っていることを忘れる訳にはいきません。

パウロは語るのです。コリント教会の人たちよ、あなた方も神から救いの恵みをいただいた人たち。それは、あなたの外面的な何かによって初めて確かにされる救いなどではない。ただ御子の十字架の死と復活によって、神がお与えくださった恵みであり、だからこそその救いの恵みは揺らぐことなく、あなたと共にあり続けている。そのことが見えなくなってはいないか。その救いの恵みが、あなたを今日も確かに支え続けているのに、なくなってしまったかのように考えてはいないか。そうやって、神の恵みを無駄にしてしまってはいるのではないかと、パウロは語りかけているのです。

すべてのものが過ぎ去っても、決して過ぎ去ることなき「恵みの時、救いの日」が今や来ていると、パウロは宣言するのです。私たちが困難な中を、あるいは何の問題もないような時を過ごしていたとしても、またどんなことが明日起こるとしても、変わることなく私たちを捕らえ続けているイエス・キリストの救いの恵みが、私たちの存在を根底から支え続ける。恵みの時、救いの日を、今この時、生きている。そのことを、私たちがしっかりと信仰の目をもって見るように、今日もパウロは、この手紙を通して促しているのです。

「なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。パウロが、ここで、旧約聖書のイザヤ書の御言葉を引用し、その実現として語ろうとしている「恵みの時、救いの日」とは、御子イエス・キリストの十字架と復活という救いの出来事が起こった「今この時」のことです。神が、御子キリストを通して、私たちを神の子としてくださるその恵みが現れた時。すべてのものが過ぎ去っても、決して過ぎ去ることなき「恵みの時、救いの日」が今や来ていると、パウロは宣言するのです。私たちが困難な中を、あるいは何の問題もないような時を過ごしていたとしても、またどんなことが明日起こるとしても、変わることなく私たちを捕らえ続けているイエス・キリストの救いの恵みが、私たちの存在を根底から支え続ける。恵みの時、救いの日を、今この時、生きている。そのことを、私たちがしっかりと信仰の目をもって見るように、今日もパウロは、この手紙を通して促しているのです。