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高井戸教会だより 49号
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「霊の導きに従って歩もう」(ペンテコステ礼拝説教より)
– ガラテヤの信徒への手紙5章16節~26節 -
高井戸教会 牧師 七條 真明
十字架に死なれた主イエス・キリストが、復活され、天に昇られた後、聖霊が降って来てくださいました。神が、霊において、私たちが生きる日々の生活に関わっておられる。パウロは、そのことに関わる勧めを語ります。「霊の導きに従って歩みなさい」。聖霊が私たちを導こうとして働きかけていてくださる。だから、聖霊の導きに従って歩もう。パウロは、そう語りかけるのです。
けれども、ここに、「霊」に対立するものとして「肉」という言葉で言い表されるものが出てきます。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです」(17節)。「肉」とは、「霊」に導かれる生き方に対立するような生き方を表すものです。神からの力を拒み、自分の力で思うがままに生きようとする生き方を「肉」という言葉で表しているのです。
19節以下に、「肉の業」が列挙されます。「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、・・・」。ここで語られる事柄に、自分との関わりを一切感じないという人は、誰もいないでしょう。私たちすべての者に関わることが、ここで触れられている。キリスト者の歩みには、肉にある生き方との一つの戦いがあるのだ、と改めて思わされるのです。
しかし、キリスト者の生活に関わることとして語られるのは、「肉の業」のみではありません。22節以下に、こう語られます。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」。ここに列挙される事柄を見る時、誰もが自分との関わりを見出す「肉の業」とは違って、どれほどそこに生きている自分であるだろうかと思わずにはおれないことがここには語られている。そう思えてならないかもしれません。しかし、17節の言葉に、ハッとさせられるのです。「肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」。あなたを導こうとして働く神の霊の力を拒んで、自分だけで生きようとするから、あなたは自分のしたいと思うことができないでいる。ここで「自分のしたいと思うこと」と言われているのは、「肉の業」ではありません。「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」です。私たちが、本当はしたいと思っていることが、ここにある。私も本当は愛に生きたい。喜びをもって、平和の内に生きたい。
しかし、しばしば肉と霊が対立し、本当はしたいことができない私たちは、どうすればよいのか。心に留めたいのは、「肉の業」が、私たちが行う「業」として語られるのに対して、「愛、喜び、平和・・・」は、私たちの「業」とは記されないことです。「霊の結ぶ実」です。聖霊がご自身の働きの中で私たちの内に結ばせてくださる「実」が、「愛、喜び、平和・・・」なのです。
そして、聖霊は、罪と死の力に打ち勝っていてくださる御方、キリストの霊であることを忘れてはなりません。私たちが肉に陥る時、なおそこから私たちを引き出してくださる霊です。私たちの中にも霊の結ぶ実をもたらしてくださる御方の霊なのです。
聖霊が、私たちの日々の生活の中で、働きかけ、導いてくださっています。その霊の導きに従って歩んでまいりましょう