日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 50号

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「からし種一粒の信仰」
-マタイによる福音書 17章14~20節-

高井戸教会協力牧師 清水(しみず) 窕子(ちょうこ)

主イエスが多くの病人を癒しておられると聞いて、てんかんで苦しむ息子を連れた父親がやってきました。しかし、そのとき、ちょうど主イエスは山に行かれて留守で、弟子たちにすがりましたが、弟子たちには癒すことができませんでした。その後、主イエスが帰ってこられると、主イエスはただちにその子を癒されたのです。
弟子たちがひそかに、なぜ自分たちには癒せなかったのですかと尋ねますと、主イエスは、「信仰が薄いからだ。……もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。」と言われました。

「信仰が薄いからだ」という主イエスの言葉は、文字通りには、「小さい信仰」のせいだという意味です。他方、「からし種一粒ほどの信仰」があれば、山をも動かすと言っておられますが、これは、弟子たちの人間的な能力としての「小さい信仰」ではなくて、聖霊の神によって弟子たちや私達の中に生み出される本物の信仰、真の信仰を指しています。

病気の子の父親は、マルコによる福音書の平行記事では、「信じる者には何でもできる」と主イエスに言われると、ただちに「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と答えています(マルコ9:23~24)。この父親が「信仰のない」と言ったのは、主イエスが言われる「からし種一粒ほどの信仰」、真の信仰がないことを告白ざんげしたのです。

ところで、ふつう「信仰」と訳されているピスティスというギリシャ語は、ときには、神の「誠実」とか、主イエスの「真実」などと訳されてもいる言葉です。 神の誠実、真実とは、もともとはアブラハムをとおして人類を祝福するという神の救いの約束を守る真実のことです。この約束を守る神の真実は、イスラエル民族のエジプト脱出を引き起こし、エジプト軍に追撃された絶体絶命のときにも、「主があなたたちのために戦われる」とモーセが言ったとおり、神は海に乾いた道を通してイスラエルを救われたのです。このモーセの信仰こそ真の信仰、「からし種一粒の信仰」です。

他方、主イエス・キリストの真実は、くりかえし背く私達の罪を、十字架の上で肉を裂き血を流す凄惨な苦難と死によって赦してくださる愛の真実として現されました。 私達人間の能力としての信仰はすぐにもゆらぐ「小さい信仰」に過ぎませんから、私達から神さまに至る道はありません。しかし、父なる神と御子なる主イエス・キリストは、十字架の上で罪と悪と闇の力と戦って勝利してくださって、私達から神さまに至る道を、神さまの方から通してくださいました。私達は、ただ「キリエ・エレイソン、主よ、憐れんでください」と祈りつつ、この備えられた道を通って、父なる神と主イエスのところに行けばいいのです。

そうすれば、父なる神の霊であると共に主イエスの霊である聖霊なる神は、父なる神と主イエスの真実であるピスティスを私達の中に注ぎ込んで、神はいつも私達と共にいて私達を愛し救い祝福するという約束を守る真実な方であると信じる真の信仰であるピスティス、「からし種一粒の信仰」を生み出してくださるのです。このような真の信仰を与えてくださる父、子、聖霊なる三位一体の神に感謝と賛美を献げましょう