日本基督教団 高井戸教会

教会だより

  1. ホーム
  2. お知らせ・教会だより
  3. 教会だより
  4. 高井戸教会だより 48号

高井戸教会だより 48号

教会だより

「死にて葬られ、陰府にくだり」
– ペトロの手紙 一  3章13節~22節-

高井戸教会 牧師 七條 真明

「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」(15節)

 代々のキリスト教会が自らの信仰を言い表す信仰告白の言葉として用いてきた使徒信条における第二の部分は、神の独り子であられる主イエス・キリストに対する信仰を言い表している部分です。「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」と、主の死の事実を語る言葉が重ねられていることに心が留まります。けれども、主の御苦しみと死の出来事はいつでも、使徒信条が続けて「三日目に死人のうちよりよみがえり」と語るとおり、主のご復活の出来事の光の中でこそ正しく捉えられることを忘れる訳にはいきません。主の十字架の死は、罪と死に対する決定的な勝利の出来事であり、私たちの望みは、そこにおいてこそ確かなものとして見えてくるからです。

 キリスト教会が、使徒信条を三要文の一つとして学び、いつも新たに受け留めることを大切にしてきたのは、「あなたの望みは何か」と問われるときに、いつでも弁明できるための備えでもあったのだと思います。

 希望がなければ人間は生きていくことができません。私たち人間は、生きている間、さまざまな望みを持ちます。しかし、死はしばしばそのような望みの一切をことごとく打ち砕くようにして私たちの人生に訪れます。死を免れた人は、誰もいません。私たちがどのような人生を生きるとしても、その最後に死があるという事実は、すべての人間に共通するものです。

 カール・バルトという人が、使徒信条の「葬られ」という言葉について、このように印象的に記しました。「『葬られ』・・・やがていつか、一群の人々が、どこかの墓地に出かけて行くであろう。そして一つの棺を埋めて、みな家路につくであろう。しかし、一人だけは帰らない。そして、それが私であろう。」(『教義学要綱』より)

 しかし、私たちは、ここでこそもう一度、使徒信条において、「死にて葬られ」と語られているのは、誰のことかを心に刻まなければなりません。それは、主イエス・キリストです。「死にて葬られ」、死んで葬られるという私たち人間の誰しもに例外なく当てはまることを、神の御子がご自身の身に引き受けてくださいました。そして、そればかりでなく、私たちの罪の一切を負い、苦しみを担い、私たちに向けられるべき神 の呪いを、私たちに代わってご自身の身に引き受ける死を死んでくださいました。

使徒信条は、さらに「陰府にくだり」と語ります。「陰府」とは、旧約聖書の時代から死にゆく者が行く場所と考えられていたところです。神から全く切り離された闇の世界、世界の最も低く深い場所です。
主イエスは、死んでそのような陰府にまで赴いてくださった。ペトロの手紙一3章19節は、陰府に赴かれた主イエスご自身がそこで福音を宣べ伝えてくださったという驚くべき事実をなお語っています。

主は「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり・・・」。ここには、私たち人間の救いのための、激しいまでの愛と熱意に満ちた主イエス・キリストの献身と御子における神の御業の勝利が言い表されています。その主イエス・キリストの御姿の中にこそ、死を超える確かな希望があり、私たちが死にゆくところでも頼るべき神の御手がはっきりと見えているのです。