日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 44号

教会だより

「神に希望をかける」
– コリントの信徒への手紙 二 1章3~11節-

神学生 田中 従子(よりこ)

今年は、日本プロテスタント伝道150年の記念の年ですが、現在の日本の教会は、教会員の高齢化、献身者の減少、伝道の不振など沢山の問題を抱えているように思われます。明日の教会に、命と力の生き生きと満ち溢れる姿を思い描くことは難しいのが現状です。しかし、だからこそ聖書に耳を傾けましょう。苦しみの無いところに慰めは必要ありません。教会が苦しみの中にあるからこそ、「慰めを豊かにくださる神」の慰めとはいかなるものかを知りたいと思うのです。

 コリントの信徒への手紙二 1:3~11には、「慰め」という言葉が実に9回も用いられており、4節には「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」とあります。ここで私たちが注目すべきことは、パウロがどれほどの苦難を経験したから、他人の痛みや苦しみをも理解できるようになったかということではなく、パウロの経験によって、神がどのようなお方であると示されているかということです。パウロを慰められた神は、「主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神」(3節)であり、コリント教会にとっての神であられ、また私たちの神でもあられるお方なのです。この神の慰めが、パウロを仲介として私たちにも示されているのです。

 聖書からは、コリント教会が直面していた苦難を詳しく知ることはできませんが、彼らは「キリストの苦しみ」(5節)を味わっていたのだと書かれています。コリントの教会同様、現代の私たちも、キリスト者であるゆえの苦しみを避けて通ることはできません。また、教会も最初に述べたような問題を抱え、「キリストの苦しみ」を経験していると言えます。

 しかし神は、「キリストの苦しみ」を苦しむ者には、「キリストによって満ちあふれている慰め」をも与えてくださいます。これは、漠然とした気休めではありません。「キリストの苦しみ」を苦しむ者への慰めとは、キリストの救いの内に入れられ、キリストを知り、キリストの体である教会と結ばれている事実に拠るのであり、その事実を確信して力が与えられることなのです。パウロの証しする、神の賜る慰めとは、ただ気落ちした状態から、もとの平然とした状態に戻すだけのものではありません。それをはるかに超える力強いものです。だからこそ、パウロは6節後半から、確信に満ちてこのように語ることができるのです。「わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。」

 パウロが慰められるとき、コリント教会は、パウロに慰めを賜る神の御姿を見、その同じ神を信じるものとして、神からの慰めを確信し、また実際慰められるのです。その慰めによって、キリストの苦しみを耐えることができるのです。パウロとコリント教会は、同じ神を信じ、同じキリストの体に属するものであるからこそ、苦しみも、そして慰めも共にすることができるのです。そうであるならば、パウロとコリント教会と共に同じキリストの体に連なる私たちも、この慰めの希望を見ることができます。

 この、キリストに結ばれた慰めとは、何にも勝って確実なものです。この世にあっては、最も確実なものとして君臨しているのは、「死」であるかのように思われることがあります。命は必ず誕生するとは限りませんが、誕生した命は必ず、例外なく死を迎えるからです。しかし、その「死」をも打ち破って復活されたお方に結ばれた慰めであるから、神の賜る慰めは何にも増して確かなものなのです。そして、このように死者を復活させてくださる神に、私たちは望みをかけることができるのです。絶望から一転して希望が持てる。もはや恐れも思い煩いも捨てて歩む。キリスト者が避けることのできない「キリストの苦しみ」。しかし、その苦しみを味わいつつも、神に希望をかけられる。このことこそ、神の賜る慰め、励ましの確かな中身なのです。

 実際パウロは、コリント教会へ慰めの言葉を語るとき、単なる楽天家として語っているのではないのです。彼は、8節から記されているように、耐え難い苦難を味わい、「死」というものを、間近に、そしてはっきりと自分を脅かすものとして感じておりました。しかし、パウロの慰めの確信は、そのような絶望の淵に置かれた人間の言葉として生まれてきたのです。望みのない、暗い暗いところにあって、彼が見た光とは何であったか。それが、「死者を復活させてくださる神」に他ならなかったのです。ここにパウロは慰めを見出したのです。

 最後にパウロは、コリント教会に祈りで援助するようにと勧めます(11節)。ここに私たちは、父なる神と教会との生きた関係を見ることができます。神は遠く離れたところから御自分の教会を見ておられるのではありません。教会も自分たちの知らない何かに希望をかけて歩んでいるのでもないのです。神が教会を、私たちを知っていてくださり、教会もまた神に祈る。そのような交わりの内に、神からの助けと慰めが実現するのです。

 慰められるということは、一方通行の関係では実現しません。その慰めが本物である、真理である、自分の存在を任せるに足るものであるとの確信無しには、慰めを受けることはできません。人は時に、慰めを拒みます。これ以上何かを信頼して、また裏切られ、さらに傷つくことを恐れるからです。

 しかし、私たちに慰めを豊かにくださる神は、死者を復活させられるお方です。絶望を打ち破って希望を与えてくださるお方。そのお方を受け入れ、信じ祈るとき、この上ない慰めと励ましと助けが与えられると、聖書は証しします。だから今日、この聖書の証言を信じ、神に望みをかけましょう。明日からではなく、そのうちにでもなく、今日からずっと、神に望みをかけた教会の歩みをなしていきましょう。