日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 43号

教会だより

「喜びあふれて」
– マタイによる福音書 2章1節~12節-

牧師 七條 真明

イエス・キリストがお生まれになった時、いち早く救い主のもとに導かれたのは、占星術の学者たちであったとマタイ福音書は語ります。しかし、その事実は、教会の人々をしばしば戸惑わせてきました。彼らが、ほかでもない占星術に関わる者であったからです。占星術をはじめとする占いは、神が最もお嫌いになるものとして聖書が示すものです。

 しかし、科学が発達した現代でも、占いは多くの人々の関心を呼びます。時代を超えて人間の心のうちにある将来への不安を映し出しているのでしょうか。自分の将来に何が待っているのか。不安な思いを少しでも解消したい。その思いが、人間を占いへと向かわせるのでしょう。その当時も人々は、自分の将来について知りたいと願い、占星術の学者などに占ってもらったのです。占星術の学者は、少なくとも彼らが生きていた国において、将来を知り得る特別な知恵を持つ賢者と見なされ、尊敬を集める存在でもありました。

 しかし、そのように人々から尊敬され、一つの地位を得ていた占星術の学者たちが、なぜ救い主を求める遥かな旅へと出発したのでしょうか。エルサレムを訪れた占星術の学者たちは語ります。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。・・・その方の星を見たので、拝みに来たのです」。賢者として崇められ、将来を知り得る知識を誇っても、その自分たちが不安を抱き、恐れている。彼らは、そのどうしようもない思いを心密かに抱えていたのではないでしょうか。そういう自分たちを救ってくれる救い主がお生まれになったのではないか。新たに輝いた星に、救い主の訪れを見てとって、いてもたってもいられず、その星を目指して出発したのではなかったでしょうか。

 星占いは、自分の星を見つめ、どこまでも自分の人生の行方を知ろうとします。しかし、そのように自分で自分の人生を支配しようとするところでは、人生に対する不安は消えず、むしろ自分とその将来へのこだわりと不安が増幅するだけなのではないでしょうか。東の国を旅立った占星術の学者たちは、もはや自分の星を追い求めたのではありません。「その方の星を見たので・・・」。彼らは救い主の星を見た。そのことが彼らを自分へのこだわりの中から出発させたのです。やがて、占星術の学者たちは、救い主のもとへ導かれます。彼らは「喜びにあふれ」、幼子キリストをひれ伏して拝み、黄金、乳香、没薬を献げました。その献げ物は、占星術の道具であったとも言われます。彼らは大切な商売道具、いえそれまで自分の人生を成り立たせていると思っていた拠り所、しかし事実はそこにしがみつくことで不安を増幅させていたものを、今手放すのです。これからは、イエス・キリスト、この御方に自分の人生を委ねて生きられる。その確信を与えられたのです。

「喜びにあふれた」。クリスマスの大いなる喜び。その喜びの中に立つようにと、神が御子をお送りくださいました。私たちが、一切を主イエス・キリストにお委ねして生きる喜びの中へと出発するためです。