日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 36号

教会だより

「わたしにつながっていなさい」
-ヨハネによる福音書15章5 – 12節-

牧師 内藤 留幸

『わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。』(ヨハネによる福音書15章5節)

このみ言葉は最後の晩餐の席で主イエス・キリストが語られた決別の説教の中の一説です。弟子たちを愛してやまなかった主は、ご自身が去った後、彼らが信仰者のしていつまでも生き続けるためには、結局キリストとしっかりつながっていることが大切だと、諄々と諭されておられるのです。このみ言葉には、弟子たちの行く末を思う主キリストの熱き配慮がこめられていて、わたしたちも深い感動を覚えるのです。

ぶどうの木である主キリストに枝としてわたしたちがつながるとはどういうことなのでしょうか。具体的には、わたしたちがキリストのからだなる教会につながっているということです。それはもちろん信仰によって(洗礼を受けて)つながっているのです。信仰ぬきで救い主キリストにつながることはできません。キリストとつながり、教会に肢としてつながることは、わたしたちに与えられた神の恵みなのです。

幹であるキリストに枝としてつながっているわたしたち信仰者は、キリストから十分な慈養分を与えられて豊かに実を結ぶようになるのです。では、十分な慈養分とは何でしょうか。端的に言えばいのちの言葉・愛の言葉です。7節に『あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。』とあるとおりです。

キリストが与えてくださるいのちの言葉・愛の言葉は人を真に生かし、働かせる力をもっています。わたしたちが内なるキリストの言葉に触発されて奉仕のわざに励むとき、神さまはそれを喜び、主の栄光をあらわすものとして祝されるのです。
ここに「主のみ言葉が、あなたがたのうちにいつまでもとどまっているならば」と語られていますが、それは、日頃の礼拝生活、祈りの生活で聖書のみ言葉に親しんでいることの大切さがのべられているのです。また、ここで、ぶどうの木であるキリストにつながっているわたしたちの信仰者が豊かに結ぶ実とは何を指しているのでしょうか?それは人々を喜ばせ、人々の生命を豊かにする愛の行動を指しているといってよいのではないでしょうか?

主イエス・キリストは『私の愛にとどまりなさい。』(9節)ともいわれました。主の愛を一身に受けた者たちは、主がそうであったように、赦し、尽くし、犠牲を払うことをいとわずに人を愛し、人に仕える者となるのです。

主は、『わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。』(12節)と弟子たちに言われました。主の愛(アガペー)はいつも深い祈りに裏打ちされたものでした。それは友のために自分の生命を捨てるような愛でした。主キリストに信仰によってしっかりとつながっている時に、弟子たちはこのアガペーの愛に生きる物として、育てられていったのです。

どんなことがあってもキリスト教会につながっていることを、高井戸教会を去るに当たって、教会員の方々に強く望んでいます。