日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 9号

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説教 「赦す者と赦された者の愛」
ルカによる福音書7章36~50節

牧師 内藤 留幸

ルカ福音書7章36~50節は「主に香油を塗る罪の女の物語」と言われている個所である。ここを読んでいつも思うことは、この罪の女は、何故主イエスに対して狂おしいように激しい行為をしたのかということである。この罪の女にはそうせずにはおれない理由があったのであろう。では、いったい、それは何であろうか。おそらく、彼女はすでに主イエスに出会い、主によって自分の深い罪の赦しの恵みをいただいていたのではないかと思われる。

人間は誰でも神のかたちに創造された者であって、生まれつきの悪人とか生まれつき汚れている人などはいない。この罪の女
といわれた女性も初めからそうであった筈はない。もとは美しい、汚れを知らぬ乙女であったのではないか。しかし、どこで、どのようにして人生の歯車が狂ってしまったのか、人生のある時から身を持ち崩し、人々から「あの罪の女か」と後ろ指をさされるようになってしまった。自分の美しさに躓いたのか、あるいは家の貧しさの故にそうなったのか定かではないが、いつのまにか人間の罪や欲望の渦巻く汚れた世界にどっぷりつかってしまった。彼女は、時には自分で自分に絶望し、やけになることもあったに違いない。神と関わる美しい清い世界は自分には全く関係がないと思いこみ、明るい将来もなく、かといって死ぬこともできず、ただ空しい心で生きていた。

人間はそう簡単に死ねるものではない。どんなに空しい日々であっても、また悲しみの日々であってもとにかく、生きていることが大切である。忍耐して生きていると、いつの日にか、きっと、新しい光が差してくる。恵み深い神が生きておられるから。

この罪の女も、ある日、思いもよらぬ素晴らしい出来事にぶつかった。それは主イエスとの出会いであった。彼女は主イエスとの出会いによって全く想像もつかなかったことに目が開かれた。彼女は生まれて初めて自分をかけがえのない尊い人間として遇してくれる方に出会ったのである。

主イエスは人間をみるとき、富、名誉、地位、職業、学歴などを取り除かれる。そして裸で生まれ、裸で死んでいくありのままの人間の姿をご覧になり、そのような人間の姿をこよなく美しく尊いものとして大切にされ、深く愛された。罪の女は、罪に汚れ悪に染まった何の取り柄もない卑しい自分を実に尊い人間とみて、親身になって救いの手を差しのべて罪を赦し、泥沼のような生活から救い出してくださった主イエスを知った。そして、こんな自分にも愛といのちに生きることができる自由な、輝くったのである。彼女が激しく心狂えるように主イエスにすべてを捧げ、仕えたのも何の不思議もない。彼女は主の深い罪の赦しの愛を受けたものとして、そうせざるを得なかったのである。彼女は全身全霊を傾けて自分の人生を捧げて仕えるお方に出会った。おそらく彼女は、主への献身の生涯を送ったに違いない。多くの罪を赦されたことを知る者だけが罪を赦して下さる主を愛し、ひとすじに主に献身し、主に仕えていくのである。