日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 17号

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”信仰者の生死”
フィリピ信徒への手紙2章12-14節

牧師 内藤 留幸

人間は何処から来てどこへ向かって生きているのか、人間は死後どうなるのか。この問いは昔も今も少しも変わらない根本的問いである。私たちは身近な人の死に接する時や、召天者を記念する時などには、改めて死という厳粛な事実と、その持つ意味とを見据え直さなければならない思いにさせられる。しかも、死が私たちにとって避けることのできないものだとすれば、今、生かされている間に私たちはどのような用意をし、心の準備をして死に臨んだらよいのであろうか。…このことをめぐって二、三のことを述べてみたい。

 ① 死は、この私が世と世のすべての人間関係と訣別することである。それ故、私たちは物心両面で身辺を整理し、清潔にしておくことが大切である。金銭面の負い目は言うに及ばず、精神面としては「赦し」ということが大切ではないかと思う。私たちは他人に対して恨みを抱いたまま世を去ることは心残りである。人間関係でわだかまりがある時は、その人を赦し、自分も人からの赦しを求め、平和で清らかな心になって世を去るべきである。キリストが主の祈りの中で「われらに罪を犯す者をわれらが赦す如く、われらの罪をも赦し給え」と教えられたことを深く受けとめ、この祈りを心から祈り続け、和解と平安を与えられることが必要なのである。

 ② 「自分の救いを達成するよう努め」ている私たちには、自分に委ねられているこの世での務めに誠実に励むことが信仰者として大切なことである。「何事も不平や理屈を言わずに行いなさい」と言われているとおりである。今日のうちにすべきことは明日まで延ばしてはならない。人の生命は明日どうなるか分からないからである。私たちが与えられている仕事に誠実に励むならば、たとえ途中で事切れても悔いはない。なぜなら、神の目の前では生きている間に何をしたかという結果よりも、どのように生きたかという姿勢が大事だからである。

 ③ 信仰者が死を迎える備えとして最も大切なことは、救主キリストによる罪の赦しや贖いの恵みを明確に知り、できれば体験しておくことである。「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と勧められているように、中途半端な救いで満足せず、キリストの救いが私たちの中で完全に成就するように励む、…そのような礼拝生活を最後まで変わらず守り抜くことが重要なのである。その際、力強いことは私たちが救われることを私たちよりもはるかに強く神が望んでおられることである。神は私たち一人一人の中に聖霊をくださると共に信仰者の群れである教会に聖霊を満たして救いのみわざを成就なさるのである。

 高井戸教会という神の家族の信仰の交わりを通し、また共にささげた礼拝と、そこで語られた神のみ言葉によって、私たちは信仰が育てられ、人生の意味を深く知り、喜びを与えられ、助け合って今日まで歩んできた。この教会こそ私たちの魂のふるさとであり、天の御国に連なる門であり、道なのである。

 ラテン語では死をNataleという。この語は死という意味と誕生という意味をもっている。主キリストを信じる者にとっては、死は単にこの世の終わりではなく、まさに新しい永遠の生命の誕生なのである。なぜなら、死の力に勝利された復活の主キリストにあっては、この世と永遠の御国とは一筋に繋がっており、死によっても決して断絶されないからである。

(召天者記念礼拝説教の中より)