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高井戸教会だより 18号
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黙 想 “ゲッセマネの園の祈り”
ルカ22章39-46節
牧 師 内藤留幸
主イエスは最後の晩餐を済まされた後、深く祈られるためにゲッセマネの園へ赴かれた。そこでの主の祈りは静かで、なごやかな祈りなどではなく、巧妙なサタンの試みと戦われた激しい祈りであった。
人は誰でも、深い悩み苦しみの時には親しい者が側にいることを望む。必ずしも何かしてほしいと願うわけではないが、とにかく側にいてほしいし、できれば祈ってほしいのである。
主イエスも親しい三人の弟子ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて園に出かけられ、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われ、ご自身は少し離れたところで祈られた。主と弟子たちとの距離は石を投げれば届くところといわれている。即ち、お互いにすぐ近くにいたわけである。
主が祈り終えて弟子たちのところへ来てみると、彼らは悲しみのあまり眠っていた。マタイやマルコの福音書によれば3度同じように居眠りをしていたという。弟子たちは共に祈ってほしいとの主のご期待に、結局は応えられなかった。彼らは主がゲッセマネの園でサタンとの凄まじい戦いをし、血の汗を流して祈られた姿を、すぐ近くにいながら見ることができなかった。人間は距離的にどれ程近くにいても、互いに心が通じ合わなければ、その心理的距離は限りなく大きい。
主イエスは孤独の中で真剣に祈られた。「父よ、み心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、み心のままに行なってください。」――と。
この祈りはなんと深く、激しい祈りでしょうか。「この杯」とは苦しみの杯であり、そこには悲しみや痛みが溢れるばかりになみなみとしていた。人となられた神のみ子イエス・キリストには生への強い思いがあられた。十字架という苦難の死を前にして、できればそれを取りのけてほしいと切望された。しかしながら「父なる神よ、それはわたしの思いですから、どうぞ、あなたのみ心がわが身になるようにしてください」と真剣に祈られたのである。「すると天使が天から現れて、イエスを力づけた」(43節)という。
主はサタンの試みと激しく戦われ、ついに勝利された。主イエスのご生涯は初めから終わりまで、くり返し迫ってきたサタンの誘惑との戦いの連続であった。サタンの激しい攻撃のねらいは唯一、主イエスを父なる神から引き離すことであり、それは父なる神への信頼を主から失わせようとすることであった。
ゲッセマネの園での主の祈りのみ言葉は主の内面において二つの思いが激しくぶつかり合っていたことを如実に示している。父なる神のみ心は救い主として十字架の苦難を受けることにあるのか、それとも、今は十字架を避けて弟子と共にいて彼らを守ることにあるのか、どちらなのかを主は真剣に祈られた。そして、十字架への道を歩み切ることが父なる神のみ心であると悟られ、十字架のご苦難を受けられる決断をされたのである。
「神よ、わたしの思いではなく、あなたのみ心をなし給え」との真実で、真剣な祈りだけが、この世にあってしばしば迫ってくるサタンの誘惑に勝つ力を持っているのである。