日本基督教団 高井戸教会

教会だより

  1. ホーム
  2. お知らせ・教会だより
  3. 教会だより
  4. 高井戸教会だより 93号

高井戸教会だより 93号

教会だより

「教会は教会らしく」

― ガラテヤの信徒への手紙第5章25節~第6章10 ― 東京神学大学教授 神代真砂実

わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、

霊の導きに従ってまた前進しましょう。

(ガラテヤの信徒への手紙第5章25節)

教会は「霊の導きに従って生きている」者の集まりです。イエス・キリストの霊である聖霊の導きに従って生きている民です。さらに言えば、十字架において私達の罪のために死んで下さった方の霊である聖霊によって導かれているのが教会なのです。

ですから、教会の土台には、罪からの救い、罪の赦しがあります。教会は、罪の赦しの力によって歩むもの、罪の赦しの力が働いているところなのです。

そのため、教会は、教会で起こった過ちについて無関心ではいられません。第6章の1節に「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪〔過ち〕に陥ったなら」とあります。私達は罪から、イエス・キリストによって救い出されましたが、それにもかかわらず、「過ち」を犯してしまいます。罪は乗り越えられているのに、罪が奇妙な仕方で働いて、過ちを犯させるのです。そして、それは教会にとって、決して、どうでもよいことではないのです。

それは、それこそ、教会が、十字架において、私達の罪のために死んで下さった方であられるイエス・キリストに導かれているからです。つまり、教会の土台に、罪からの救い、罪の赦しがあるからなのです。このことから明らかなように、この手紙の著者(パウロ)は、教会に連なる私達が互いに無関心であるような姿を許しません。「善を行」うことから(10節)手を引いてはならないのです。

10節は、そのことを「すべての人に対して」心がけるようにするのが大切だと語ると同時に、「特に信仰によって家族になった人々」、つまり、教会にあって、それは特別な課題であると語っています。過ちというかたちで罪の名残が現れてきますけれども、キリストの恵みによって教会は建っているのですから、それは放っておいてよいものではありません。少なくとも、過ちに対して、心を痛めなくてよいはずがないのです。そうであってこそ、2節にあるように、「互いに重荷を担う」ことになるのです。

教会は過ちというものに対して無関心ではいられないはずですが、過ちを問題にし過ぎるというのも、あってはならないことです。実際、この箇所でパウロが論じているのは、むしろ、そのことの方です。

パウロは、自分を高いところに置いて、過ちを犯した人を批判するようであってはならないと言います(1節、3節、4節)。 他人の過ちに対して、自分は関係ないと考えて、他人を裁き、心を痛めることすらしない場合、また、その、過ちを犯した人をあからさまに、また、痛烈に批判するという場合が、それにあたります。それは、私達にとって、身に覚えがあることでしょう。

けれども、パウロは、それが教会にふさわしいことだとは考えません。それでは、2節の言う、「互いに重荷を担」うことにならないのです。「キリストの律法を全うすること」にならないのです。

そこで、さらにパウロは勧めます。4節に、「各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう」とあります。自分自身のことを省みてみれば、過ちを犯した他人を見下したりなど出来ないはずだ、と。

わかりやすい勧めの言葉ですけれども、パウロは、決して、ただの反省を求めているのではありません。ここで大事なのは、私達がイエス・キリストの霊である聖霊によって導かれているということであり、罪の赦しによって、その恵みの力によって歩んでいるということです。そうである以上、ここでの反省は、自分自身が罪の赦しを必要としていると認めることであるはずです。

イエス・キリストを信じている。それは、この自分が、罪を赦されるのでなければ生きられない者だと知っているということです。それが、私達なのです。5節で、「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」とパウロが言うとき、考えているのは、そのことです。2節の「互いに重荷を担いなさい」と矛盾するような話でありながら、実は、この両方が大切なのです。私達一人一人が罪を赦されて生きているからこそ、過ちを犯す他人を切り捨てたりしないで、かえって心を痛めることが出来る。そうやって、「互いに重荷を担」えるようになるのです。

なおここで、疑問を持たれる方も、おありでしょう。何がいけないかはわかったけれども、それでは、一体、どうしたらよいのか、と。

この疑問に答えるのは、決してやさしくはありませんけれども、おそらく、そこで大切になってくるのは、「柔和な心」(1節)という言葉ではないかと思います。私達が、教会の中に現れてくる過ちに対して、どのようにかかわっていくにしても、そこには、柔和さが伴っていてこそ、教会らしいのだ、ということです。

「柔和」とは「穏やかである」・「冷静である」ということです。また、「柔和」の反対は「怒り」・「攻撃」・「荒々しさ」ですから、柔和であるというのは、怒りに支配されないということになるでしょう。心を痛める事柄に対して、そういう過ちを犯した人に対して、怒りをぶつけていくというのではなく、むしろ、キリストによる罪の赦しに立ち返れるようにしていく、互いに、そこへと返っていくことが求められているのです。

そして、ここでも、考えてみれば、罪の中にあった私達に注がれるはずであった、神様の怒りや裁きを、イエス・キリストが私達に代わって引き受けて下さったという事実が大切なのに気づかされます。怒りは、イエス・キリストで終わりにされているのです。ですから、怒りが教会を支配してはならないのです。そうであってこそ、教会は、キリストの霊によって導かれていると言えるのですし、そのような教会において、私達は生きるようにされているのです。

(2022年10月30日主日礼拝説教)