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高井戸教会だより 92号
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「「世の終わりまでで共に」
― マタイによる福音書28章10~20 ― 牧師 七條(しちじょう) 真明(まさあき)
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 (マタイによる福音書第28章16~20節)
マタイ福音書を書いたマタイは、福音書の結びの部分に、復活なさった主イエスと弟子たちの再会の場面を記しました。しかし、随分と抑制したタッチで記しています。「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した」。
弟子たちはガリラヤに行きました。二人の女性が、十字架に死なれた主イエスの体が納められた墓に赴き、天使から、弟子たちに告げるようにとメッセージを託された。そのメッセージを弟子たちが聞いたからです。女性たちは復活の主イエスともお会いし、主イエスもまた、弟子たちにガリラヤへ行くように、そこでわたしに会うことになるから、と言われたとのことでした。
弟子たちの心のうちに、驚きと共に喜びの思いが湧き上がったことでしょう。主イエスが指示されたガリラヤの山に登り、復活なさった主イエスにお会いした時、その喜びもひとしおであったと思います。しかし、17節には、このようなこともまたはっきりと語られます。「しかし、疑う者もいた」。疑った弟子が誰か、マタイは具体的な名前を記しません。それは、主イエスを信じ、従う弟子たち皆に関わること、主の教会に生きる私たち皆に関わることだからではないでしょうか。
ガリラヤの山に集まった「十一人の弟子たち」。主イエスを裏切ったイスカリオテのユダを除く十一人です。その人数が既に彼らの欠けを表しているような弟子たちでした。主イエスを見捨て、否み、逃げてしまった十一人。復活の主にお会いし、礼拝を捧げながら、なお疑いの思いを持っている者たちでした。けれども、その彼らに、主イエスは近寄って来て言われます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。
主イエスは、ご自身が、この世界のすべてのものをご支配のもとに置く権能、権威、力を授かっておられることをお示しになります。その権能、権威とは、途轍もなく大きなものです。しかし、その権威を、神に背く私たち人間を滅ぼしてしまう権威としてではなく、ご自身の命をもって救う権威として授かっておられることを、明らかにしてくださいます。そして、わずか十一人、主イエスを見捨て、ご自身のもとから逃げ
出したような彼らに、大きな伝道のご命令をお与えになります。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。弟子たちの力によってそれをせよ、という命令ではありません。主イエス・キリスト、この御方の大きな権能、全世界をもご支配のうちに置いておられるその御力によってそうするのだ、と言われるのです。
主イエスのご命令の言葉に、大きな約束の言葉が続きます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。世の終わりまで、いつも共に。弟子たちは、主イエスからもう逃げられない。主イエスが、彼らにしっかりと結びついて、捕らえていてくださるからです。しかし、主イエスから逃げられない幸い、それはどれほど大きな幸いでしょうか。
マタイ福音書の結び。主イエスと再会した弟子たちの姿を、実にあっさりと記している結びです。しかし、ここから弟子たちの新たな歩みが始まった。大きな約束に支えられ、彼らに使命を与える主イエスの御言葉に生かされて、弟子たちの新たな歩みが始まっていったのです。それは、今を生きる私たちへとつながっている歩みであり、私たちにおいても明日へとつながっていく歩みです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。世の終わりまで共に!主イエスが共にいてくださる。その大いなる約束のうちに、いつも始まっていく私たちの新しい歩みがあるのです。