日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 91号

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「今こそ、勝利の主を信じて生きよう!」

― ヨハネの黙示録 3章14~22節 ― 牧師 七條(しちじょう) 真明(まさあき)

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。       (ヨハネの黙示録 3:20)

この世界で、私たちの不安を掻き立てるような出来事が続いています。何を拠りどころとして生きるのか。そのことが深く私たちに問われている時代であると感じます。しかし、代々の教会に生きた人たちも、同じくそのことを繰り返し問われたのです。

ヨハネの黙示録は、紀元1世紀の終わり頃、ローマ帝国による迫害の中で、パトモス島の牢獄に入れられたヨハネという人物によって記されました。小アジア、今のトルコの西側にあった七つの町の教会に宛てられた回覧書簡が、ヨハネの黙示録です。

ヨハネが見た幻のうちに姿を現わされた主イエス・キリストが、七つの教会に向けて語られる御言葉が、第2章から第3章にかけて記されます。そして、第3章14節以下において、第七番目の教会、ラオディキアという町に建てられた教会に生きる人々に、主イエスから、次のような御言葉が語りかけられるのです。「あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(15~16節)。

主イエスが、ラオディキアの教会の人たちをご覧になり、そのなまぬるさゆえに吐き出しそうだ、と言われる。天上のキリストが、終わりの時に向けて語っておられる御言葉であることを真剣に受け止めるならば、実に厳しい言葉だと思わされます。

主イエスの眼差しの中に、今を生きる私たちはどのように映っているのでしょうか。私たちも、ラオディキアの教会の人たちと同じように、「あなたは、…自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(17節)と、主イエスから言われてしまうような歩みをしている者たちではないだろうか。改めてそう思わずにはおれません。

しかし、主イエスは、ラオディキアの教会の人たちを、あまりのなまぬるさに「口から吐き出そうとしている」と言われる時、吐き出すことに決めたとおっしゃっているのではないことに心を留めなければ、この箇所における主イエスの厳しい御言葉を聴いたことにはならないのだと思います。思わず吐き出しそうになりながら、なお揺るぎない愛を向け続けていてくださるのだ、ということです。それゆえの厳しい言葉であることを忘れる訳にはいかないのです。

そのことがはっきり分かるのは、19節です。「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ」。なまぬるくて吐き出しそうだと言われているラオディキアの教会の人たちこそが、主イエスによって、わたしが「愛する者」と言われている人々なのです。

主イエスは「悔い改めよ」と言われ、18節の勧めに従って、三つのものを買うように、と言われます。火で精錬された金、白い衣、目に塗る薬です。これらがそれぞれに意味するのは、ただ神のうちに見出すことができる富、主イエスの十字架の血潮によって罪が洗われたことを表す白い衣、真実に大切なものを見させてくださる聖霊です。しかし、ここで示されるものは、実は私たちが何かを払って買うことができるものではありません。むしろ、主イエスが、十字架の死をもって既に支払いをなしていてくださるがゆえに、無償で、ただで受け取ればよいと言われているというべきものです。私たちに差し出されている恵みを、まっすぐに受け取らせていただく。いや既に受け取らせていただいていると言えるものを手放すことなく歩み続けること。それが、私たちを愛し続けていてくださる主イエスが、私たちを叱り、鍛えることさえなさって、「悔い改めよ」と愛による迫りをもって私たちに求めておられることなのです。20節には、主イエスが、私たち一人ひとりに対して、今も働きかけを続けていてくださるお姿が印象深く語られているのを見出します。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(20節)。

主は、私たち一人ひとりのもとを訪れ、戸をたたき続けている、と言われます。私たちが戸を開けて応え、私たちと交わりを持とうとしてくださる主の御心を受け止めて歩む者であり続けるためです。「共に」という言葉が繰り返されます。主イエスが、世の終わりまで私たちと共にいてくださる。この御方から私たちが離れることがないように、私たちのもとをいつも訪れ、心の扉をたたき続けていてくださるのです。

「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい」(21~22節)。主イエス・キリストの十字架と復活による勝利が、私たちを含むすべての人々の目にはっきりと見えてくる終わりの日に向けて、御言葉に聴く耳を、心をしっかりと持ちたい。今こそ、勝利の主を心から信じて共に歩ませていただきたいと願います。