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高井戸教会だより 82号
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「十字架につけられたキリストを知る者として」
― コリントの信徒への手紙一 2章1~5節 ―
なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト
以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、
恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言
葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。 (コリントの信徒への手紙一 2:2~4)
いつ頃からでしょうか、8月の終わりから9月の始めにかけての時期が、子どもたちにとって危機的な時だと言われるようになりました。
長い夏休みを終えて、休み前の通常の生活が戻ってくる時に危機が訪れる。恐れと不安が大きくなる。
そのために、多くの子どもたちが自ら命を絶ってしまうことが起こっていると言うのです。
この世に生きて、何でもない日常生活を生きるところでも、恐れと不安を隠し持って生きている。
それは、大人においても、そうだと言えることかもしれません。
ただ、その恐れや不安の思いというのは、現代に生きる私たち人間において最も際立つものなのかというと、果たしてどうでしょうか。
聖書の時代に生きた人々は、恐れや不安の思いと無縁な者として生きていたのか。
決してそうではなかったことの証人の一人として、使徒パウロがいます。
パウロは、コリントの信徒への手紙一の第2章3節に、伝道旅行の中でコリントの町を訪れた時の自分の姿を、こう記すのです。
「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」。
パウロが、なぜコリントを訪れた時、衰 弱し恐れと不安を抱えていたのか。そのことについては、いろいろな理解があります。
使徒言行録の第18章に記されるとおり、コリントでは、ユダヤの人々からの激しい反対に遭いました。
そのことが、パウロを恐れさせ、彼の不安を増幅させたのかもしれません。
ある日の夜、パウロは、幻の中で主の語り掛けを聞きます。
「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる」。
「恐れるな」との主の語り掛けそのものが、パウロが恐れと不安の中にあったことを物語っていると言えます。
その一方で、コリントにおけるパウロの恐れと不安は、彼がコリントを訪れる前に一人で赴いたアテネの町における伝道が失敗に終わったためだとの見方もなされます。
ただし、次のような理解もあります。
パウロが、この手紙で明らかにする恐れや不安の思いは、彼が伝道旅行の中で、訪れる町々において、しばしば、いやいつでも感じていたものだという理解です。
パウロもまた、伝道の旅路の中で、幾度となく自らの弱さを覚えずにはおれず、どんなにかしばしば恐れと不安を抱えて生きたことか。
パウロは、伝道旅行におけるいずれの場所でも、「恐れるな」と絶えず主から語りかけていただく中でこそ前へと進んでいくことができた。
恐れと不安を突き抜けるようにして前進していった。まさにそうであったろうと私も思います。
パウロは、この手紙の第2章1節で、コリントにおいて「神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵」を用いなかったと語ります。
では、パウロは、コリントで何をどのように語ったのか。そのことは、続く2節で明らかにされます。
「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」。
パウロがここで語ることも、コリントの町だけでというのではなく、他の場所におけるのと同じように、と理解してもよいだろうと私は思います。
他のところでと同じように、コリントの町でも、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリストのみを自分は知ろうとした。
コリントの町に生きる人々を救う神の知恵、神の力そのものである十字架につけられたキリストをこそ知ろうとしたのだ、と言うのです。
キリストの十字架を抜きにして神の救いの御力を語ることなどできない。私たちを救ってくださる神の救いの御心がそこに見えてくる、十字架につけられたイエス・キリスト、その御方のことをこそわたしは宣べ伝える、とパウロは語るのです。
コリント教会には、説得力のある優れた言葉や知恵を自信にあふれて語る者たちがいました。しかし、パウロは、自信になんてあふれていない。
パウロは、コリントでも弱さを覚え、恐れと不安を抱えていたことを、率直に語ります。しかし、恐れと不安、弱さの中にあっても、そのような自分を救ってくださるキリストの十字架の力を知る者として、その十字架につけられたキリストの御力にただ依り頼んで、コリントでも宣べ伝えたのだ、というのです。
そのパウロの心は、4節~5節でこう語られます。「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。
それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした」。
パウロがここで明らかにしていることは、キリスト教会に生きる私たちが皆で伝道していくところでも、そのとおりのことであると思います。
キリスト者である私たちも恐れを持っている。ひどく不安になることがあるのです。しかし、まさにそこで、私たちは何に頼るのか。頼るべきところを知っているのです。十字架につけられたキリスト、その御方に現れている神の力、私たちを救い上げる力です。自分の弱さを覚える時にも、恐れと不安を抱きつつも、ただその御方に依り頼んで、前へと進む。進ませていただくことができる。そのことを身をもって証ししていくように、私たちは召され、教会に生きているのだと思うのです。
ある教会がホームページに、教会学校のキャンプの写真を掲載していました。
その中に、子どもたちが寝そべって、自分たちの体で一つの十字架の形を作っている写真がありました。
その写真は、キリスト教会に生きる者たちが皆でしていることが何かをよく表しているものだと思わされました。
教会に生きる者たちも、この世の中に生きて、皆それぞれに自分の弱さを抱え、恐れや不安を覚えている者たちであると言えるかもしれません。
しかし、そのような者たちが、呼び集められて、イエス・キリストの御力に依り頼みながら、
十字架につけられたキリストをこの世に向かって皆で表す歩みを続けているのだと思うのです。
私たちの救いのために十字架につけられたイエス・キリストを仰ぎ、その御力を共に証ししていく伝道の秋を迎えています。