日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 81号

教会だより

「人を生かす神の息吹」

―  エゼキエル書37章1~14節 ―

牧師 七條真明

これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。              (エゼキエル書 37:5~6)

高井戸教会では、毎年5月の第3日曜日に召天者記念礼拝を捧げています。高井戸教会の歩みに連なり、天に召されていった方々の写真を礼拝堂の両脇に置き、ご遺族と共に神の御前に捧げる礼拝です。

今年の召天者記念礼拝は、聖霊降臨日の礼拝ともなりました。キリスト教会が聖霊降臨という出来事において覚えるのは、教会が人間の意思や計画によってではなく、神の御心とご計画によって生まれたものだということです。主イエス・キリストが天に昇られた後、神ご自身にほかならない「聖霊」と呼ばれる御方が天から降って来られた。神の霊のお働きによって、キリスト教会は生まれ、今もあり続けているのです。

一人の人が、イエス・キリストを信じ、洗礼を受けて教会に生きる者となる。そこには、例外なく聖霊のお働きがあります。私たちが神を知り、信じるようになる。しかし、実はそのずっと前から、私たちの誰もが神との深い関わりの中にあり、この自分もまた神の御心のうちにずっと覚えられていた。その事実を、聖霊は気づかせてくださいます。

この世界における私たち人間の存在は、神の御心から来ていることを聖書は語ります。私たち人間は、神が深い思いを込めて、この世界に生きるようにと創造された存在だということです。人間は、土の塵から造られ、神の息を吹き入れられて生きる者となった。だから、神の息吹を受けてこそ人間は生きることができる存在だと聖書は語るのです。

旧約聖書のエゼキエル書第37章には、今から約2,600年前の時代に生きた預言者エゼキエルが、幻のうちに、神によって示された光景が語られています。エゼキエルは、ある谷の真ん中に立たされます。その谷には多くの骨があった。しかも、それらの骨は「甚だしく枯れていた」と記されます。枯れた骨、命の痕跡がなくなった骨です。そのような夥しい数の骨によって埋め尽くされている谷が目の前に広がっている。

エゼキエルが見た幻は、彼が生きた時代に深く関わることを示していると言われます。谷を埋め尽くす夥しい数の枯れた骨。それは、必ずしも死んでしまった人たちのことを表しているのではないのだというのです。神を信じて生きた人々も、先の見えない暗闇のような時代の中で、望みを抱くことなく生きていた。命がすっかり枯れ果てたような世界の中で、死んだように生きている。そのような人間の姿が「枯れた骨」として示されている。エゼキエルは、彼が生きた時代の人々の姿を示され、神から問いかけられているというのです。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」。

礼拝堂に写真を置き、召天者記念礼拝を捧げる時、神から問われているのではないかとふと思わされます。「人の子よ、この写真に映るたくさんの人たちは、生き返ることができるか」。その神の問いかけに対しては、神ご自身が答えを出してくださっている。写真に映った人たちは、そのことを信じ、生きて、天に召されていったことを忘れることはできません。神は、御子キリストをこの世界にお送りくださるほどの愛をもって私たちを救い、永遠の命、死に負けない命のうちに生かそうとしていてくださる。だから、この写真の人たちは、やがて終わりの日に生き返ることができる。それが、神が御子イエス・キリストを通して私たちに与えていてくださる答えなのです。

しかし、また、エゼキエルに示された谷の光景は、必ずしも死んでいった人たちに関わるものではないと言われることも深く心に留めたいと思います。将来の見えない、希望なき時代の中で、私たち人間が、命の痕跡が失せた「枯れた骨」のようになって生きている。私たち自身もその一人のようになっているのかもしれない。しかし、そのような私たちに神の問いかけがなされているのではないかということです。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」。

神よ、あなたの命の息吹によって私たちを生かしてください。そうすれば、私たちは生き返ることができます。そのように祈りながら、神の息吹の中に生かされたいと願います。この世界、この時代の中で、今日も聖霊がお働きくださっているからです。