日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 53号

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「起きて祈っていなさい」
– ルカによる福音書 22章39~46節-

高井戸教会 牧師 七條 真明

ルカによる福音書第22章39節以下には、主イエスが十字架を前に、「苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(44節)と語るほど、激しい祈りをなさったことが記されています。

しかし、主がここでそれほどまでして祈られた祈りは、ただ一つのことを祈る祈りであったと言えます。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(42節)。

主イエスがまず祈られたこと、それはご自身の飲むべき杯が自分から取りのけられること、すなわち十字架に死ななければならないという苦しみの出来事が起こらないで済むように、ということであった。これは私たちにとっては意外に思われることかもしれません。しかし、十字架の死に価するものは何もない罪なき神の独り子が、私たち人間の罪の一切を背負って死ぬ、犠牲の死を死ななければならない。罪を背負い、神と人とに全く捨てられてしまう死が、どれほど恐ろしいものであるか、主イエスはよく分かっておられた。だからこそ、主イエスが、十字架への道を父なる神の御心によってご自身から取りのけてほしいと率直に願われたことは、当然のことです。しかし、主イエスが、そのご自身の願いを越えて行くようにして、ひたすら願われたことは、ご自身の願いではなく父なる神の御心が果たされるということでした。私たち人間を罪と死の力の支配から救い出してくださるために、神の独り子が十字架に死なれる。そのことによって私たちの救いを実現なさる神の御心は、私たち人間の理解などおよそ越えたものであると改めて思わずにはおれません。

東日本大震災から3ヶ月余りが過ぎました。その間、何人もの方から、今回の地震と大きな被害の中にある神の御心は何か、ということをさまざまな形で問われました。誰もが、神の御心を問わずにはおれないほど、今回の災害は、私たちの心に大きな影を投げかけているのだと思います。

私が強く感じさせられることは、今回の大災害は、日本に生きるすべての者にとって大きな試練であることはもちろんですが、それとは別の形で日本の教会に生きる者たちにとっての信仰の試練と呼ぶべきものがあるのではないかということです。こういうことが起こった中でなお「神は愛なり」、そのことを信じ抜くことができるかという試練です。

主イエスが十字架を前にして祈りをなさっていたその場所に、弟子たちもまたおりました。弟子たちにとっても試練の時でした。しかし、彼らは、これからの行く末が分からず「悲しみの果てに眠り込んでいた」(45節)とあります。

「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」(46節)。主イエスの語りかけが聞こえます。聖書は、いつも神の愛の御心が見えてくる場所を、私たちに指し示しています。どのような悲しみがあり、困難がそこにあったとしても、それでも「神は愛なり」、そう言い切れる。そのことを私たちに語りかけてやまない。

「起きて祈っていなさい」。私たちがなお一層、主の十字架の中に見えてくる神の愛の御心を見つめるべき時が来ています。