日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 52号

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「よろしい。清くなれ」
– ルカによる福音書 5章12~16節-

高井戸教会 牧師 七條 真明

ルカによる福音書第5章12節以下には、重い皮膚病にかかった男の病を主イエスが癒してくださった出来事が記されています。

「重い皮膚病」と訳されるギリシャ語の言葉と同じ意味に当たるヘブライ語の言葉は、「打たれた」というのが元来の意味です。重い皮膚病にかかった者は、「神によって打たれた者」とみなされ、恐れられました。 そして、重い皮膚病と判断された者は、当時のユダヤの社会において、人々から隔離された場所に住み、人に近づくことさえ許されていなかったのです。 誰かが自分に近づいて来た時には、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と叫んで、自分の存在をその人に知らせて、近寄らせないようにしなければなりませんでした。 この男がどれほど大きな孤独と絶望の中に生きていたかは想像するに余りあります。

しかし、この男がこの日、町におられた主イエスのもとにやって来たということは、 彼が重い皮膚病を抱えたまま罰せられる覚悟で町に入ってきたのだということを意味します。 男は、主イエスの前にひれ伏して言います。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。 この男の言葉は、願いというより、主イエスへの信仰告白とでも言うべき言葉です。

「御心ならば、あなたはわたしを清くすることがおできになります!」と言うのです。 イエスという御方にわたしは賭ける。この男は主イエスに自分のすべてを賭けて主の御前にひれ伏したのです。 この男の行動も大胆極まりないものですが、主イエスが男に対して取られた行動もまたそれを越える大胆なものでありました。

主イエスはご自身の手を伸ばして男に触れられました。重い皮膚病を抱えて、孤独と絶望の中に生きていたこの男の体に、 他の人の手が触れたのは何十年ぶりのことであったかもしれません。主は男に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われました。 「よろしい」という言葉は、直訳すると「わたしは願う」「わたしの意志だ」と訳すことができます。 男の癒しをご自身の御心として、「わたしは願う。清くなれ」と言ってくださった。そして、男は癒されたのです。  主イエスは、十字架へと向かわれました。

それは、この男の癒しが病の癒しにとどまることなく、神の御前における男の罪がご自身の十字架の死によって清められるためであります。 それは、私たちすべての者を真実に清める主イエス・キリストの死です。それを主は御心としてくださるのです。 3月11日、東日本大震災が発生しました。さまざまな不安が募る中、被災地における教会の状況が伝わってきています。

ある仙台の教会の13日の礼拝では洗礼式が行われたそうです。数え切れない人々の死があり、困難があり、不安があり、 まさにそれらに取り囲まれている一つの教会で、洗礼式が行われ、キリストにあって罪赦され、死に負けない新しい命を与えられて歩み始めた人がいる。 ダメージがあるかもしれないその教会の会堂に、確かに主が御手を伸ばされてその人に触れ、 「よろしい。清くなれ」との主イエスの御声が響いた出来事が起こった。そう言わずして何でしょうか。 長い復興への道のりが始まります。多くの人々に、教会に、主が御手を伸ばし、御心を行ってくださいますように。