日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 46号

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「命を得させる苦難」
– コリントの信徒への手紙二 4章7~18節-

高井戸教会協力牧師 清水(しみず) 窕子(ちょうこ)

なぜ私達は、不条理な苦難と死に見舞われなくてはならないのでしょうか。
「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。」とパウロは言っています。
 私達が苦難に会うのは、主イエスの苦難と死にあずかることをとおして、主の復活の命が私達に現れるためなのです。
 私達が厳しい苦難の中でも、主イエスの命によって強められる様子を、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」とパウロは言い表しています。

 主イエスご自身も十字架で不条理な苦難と死を味わわれたので、私達の出会う不条理な苦難で、主イエスが味わい尽くされなかったような苦難は一つもありません。
「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」
 私達の出会う苦難は、たとえ長く続く重苦しいものであっても、私達は苦難をとおして必ず主イエスの苦難と死にあずかり、それらをとおして、今は主から永遠の命をいただき、終わりの日には永遠の栄光をいただくのですから、私達の苦難は、ほんの一時の軽い艱難だとパウロは言うのです。
 ここで終わりの日の栄光とは、主イエスの復活の命によって復活して、神とキリストとともにあってすべての涙が拭われ、苦難も死もなく、喜びと平安の内に永遠に生きることです。そのような時が必ず来ます。

 こうして、私達の苦難は主イエスの永遠の命を私達にもたらすのですから、私達の苦難は、どの一つも無駄で無意味なものは無く、すべて〈命を得させる苦難〉です。
 パウロが身にある「とげ」の癒しを祈ったとき、主は〈わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ〉と答えられました。そこでパウロは「とげ」あるままで、「わたしは弱いときにこそ強い」と喜んだのです。

 ヨハネによる福音書9章には「生まれつき目が見えない人」が登場します。彼の苦難の原因は彼の罪ではなく、「神の業がこの人に現れるためである。」と主は言われました。そのとおり、主イエスを救い主と信じて礼拝するという神の御業が、苦難をとおして彼の上にもたらされました。

 どちらの苦難も命を得させる苦難です。私達キリスト者が多くの苦難を与えられているのは、私達が苦難の中で主イエスの苦難と死にあずかることをとおして、主イエスの復活の命にあずかり、この世では、復活の主イエスを間近に仰ぎ見て喜び、慰めと希望とをいただくため、終わりの日には、主イエスの復活の命によって私達も復活し、涙を拭われる永遠の祝福をいただくためなのです。

感謝と賛美のほかありません。