日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 34号

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説教 「十字架の主キリストの祈りの深み」
マルコによる福音書15章21―41節

牧師 内藤 留幸

主キリストが十字架につけられた時、多くの弟子たちは恐ろしさのあまり、主を見捨てて逃散してしまいました。その孤独の中で主は十字架につけられ『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』と切に祈られました。この深い祈りのみ言葉はどんなメッセージを告げているのでしょうか。十字架の主を間近に見ていたローマの百人隊長が『本当に、この人は神の子だった』(マルコ15:39)と語った言葉とのかかわりで、わたしは上よりのメッセージを聴いてみたいと思います。

この百人隊長は主キリストの十字架を見て、なぜ『本当に、この人は神の子だった』と言えたのでしょうか。

冷静に見て、主キリストの十字架の死は決して立派ではなかったし、堂々としていたわけでもありません。主は声をふり絞るように『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』と絶望ともとれる叫びをあげて息を引き取られました。その時、劇的なことは何も起こらず、神秘的なことも起こりませんでした。それなのに、ローマの百人隊長は『本当に、この人は神の子だった』と明確に、心から告白するように言ったのです。どうして彼はそう思ったのでしょうか。それは、こういうことではないでしょうか――。

主キリストが十字架の死を前にして『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』と悲痛な祈りをささげられた姿を見た時、百人隊長は「あゝ、この人は神から見捨てられることを、どんなに深く苦しみ、絶望し、恐れたか」ということを知ったのだと思います。それは逆に言えば、主キリストがどれほど深く神を愛し、神に信頼しておられたかということを、百人隊長は鋭く感じとったのではないでしょうか。幼い子が愛する親から引き離されるのを恐れるのと同じように、この人は父なる神から引き離され、引き裂かれるのを本当に恐れている、それは何よりも、『本当に、この人は神の子だった』という証拠ではないかと知ったのだと思います。

それでは、主ご自身は、どうして神に見捨てられたと思われたのでしょうか。端的に言えばこうだと思います――。神に信頼すると言いながら、実際は人間やお金に頼るほうが安心だと思っているような罪深い人間は、神に審かれ、見捨てられるほかはない、その罪深い人間の罪を代わって担う主ご自身は、神に見捨てられて十字架に死ぬ以外に人間の救い道はないと思われたのです。その深い思いを込めて『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』と神に訴え祈られたのです。

ここで主は、自分を見捨てた神に向かって《わが神、わが神・・・》と切々と祈られ、訴えられることをやめられなかったのです。この主キリストの徹底した神への深い信頼の姿に強く胸打たれる思いがします。

多くの罪を犯したわたしたち人間が神によって赦され、もう一度神に交わりの手を差し伸べていただくためには、自分が少しでもよい行いをするという程度では駄目なのです。主が十字架の上で祈られたように神のみ前に出て、ただひたすら『わが神、わが神』と呼びかけ、切に赦しを祈るほかに道はないのです。この切なる祈りを生ける神は聞き入れ、どんな悪の力も『わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない』(ローマ8:39)という恵みの事実を明らかにしてくださるのです。