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高井戸教会だより 103号
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巻頭説教
「明日に向かって種を蒔こう」
― コヘレトの言葉 11章1~6節 ―
日本旧約学会会長 小友 聡
高井戸教会の礼拝にお招きいただき、嬉しく思っています。今日、初めて教会にお出でになった方も歓迎いたします。そういう皆さんと一緒に聖書の御言葉に聞きましょう。今日の聖書の箇所は「コヘレトの言葉」というちょっと耳慣れない、旧約聖書の文書です。
この書は、読んで驚かされます。何しろ最初から「すべては空しい」と書かれているからです。この書を書いたコヘレトは何もかも空しいと言うのです。「空しい」という言葉がなんと38回も繰り返されます。ずいぶん極端なことが書かかれている書です。
けれども、今日読む11章1-6節には「空しい」という言葉はありません。1節の「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい」とは何のことか。海洋貿易の喩えだと言われます。船に農産物を積んで出航します。しかし、その船は代価を得て無事に帰って来るとは限りません。嵐で沈没するかもしれませんし、海賊もいる。それでも「水に流せ」、つまり出港せよと命じられます。2節の「七人、八人とすら分かち合っておけ」は、分かち合えということ。この先、どんな想定外の深刻な出来事が起こるかもしれない。だから、今あるものをみんなで分かち合え。これは「七つ、八つに分けよ」と訳すことも可能です。そうすると、リスクの分散という意味になります。空しいことばかり考えているかに見えるコヘレトが、にもかかわらず、とても現実的で建設的な提言をしています。意外です。
「空しい」はヘブライ語でヘベルですが、このヘベルは「カインとアベルの物語」の「アベル」という名前と同一です。アベルはカインに殺されました。その人生は短く、はかなかったと言えます。コヘレトはこのアベルと同じ「ヘベル」で、人生は束の間ということを語っているのではないでしょうか。旧約の時代、人の平均寿命は40歳に届きませんでした。人生は30代半ばで終わります。20歳になった若者が生きられる年数は10数年です。「若さも青春も」「空しい」と11章の最後に書かれていますが、それは字義通りの意味だということが分かります。コヘレトは、死を前に、残された人生の時間をヘベルと呼び、そのヘベルをどう生きるかを真剣に教えているのではないでしょうか。
大事なことは、人生が束の間ということは、人生に意味がないということではありません。いや、人生は束の間だからこそ意味がある。コヘレトはそう考えます。「死んだ獅子より、生きた犬が幸い」(9章4節)は、皮肉ではありません。これは、生きていることがいかに幸いかを語っています。今、与えられている命は神からの賜物です。その命をとことん生きよとコヘレトは教えています。
今日の御言葉のおしまいの6節に、こう書かれています。「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、わからないのだから。」この御言葉をよく読んでみましょう。これは種蒔きです。旧約時代の種蒔きは原始的です。ただ無造作に地面に種を蒔くだけです。種の質は極端に悪く、また蒔かれる土地は荒れています。多くは実を結ばないのです。いや、それどころか。すべて蒔かれた種は駄目かもしれない。もしそうであれば、種を蒔いても意味がありません。もし、コヘレトが真正のペシミスト(悲観主義者)だったら、きっとそう考えるでしょう。けれども、そうではありません。真逆です。どの種が実を結ぶかわからないからこそ、朝から夜まで種を蒔き続けなさい、と言うのです。どの種が実を結ぶかわからないという、先行き不透明な不確実性がいわば跳躍台になって、徹底して種を蒔きなさいという積極的な行動を促すのです。人生は短く、束の間にすぎない。いや、だからこそ、この与えられた人生、神様から与えられた人生を精一杯生きよ。今日を生きよ、生きるのを止めてはいけない。諦めずに、とことん最後まで生き抜くのですよ。そういうことをコヘレトは教えているのです。
今日の聖書のメッセージは、「明日に向かって種を蒔こう」です。種を蒔いてもすぐには実を結びません。待たねばなりません。しかし、いつかその日が来ます。宗教改革者のマルチン・ルターがこう言ったと伝えられています。「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、今日、私はリンゴの木を植えよう。」このルターの言葉は、私たちプロテスタント教会の信仰の生き方を教えています。明日、私たちに終わりが来るかもしれません。それでも、明日に向かって今日、リンゴの木を植えるのです。今日、リンゴの木を植えても、実が実るのは何年も先のことです。ひょっとして、そのリンゴの実を食べるのは、木を植える私ではなく、次の世代かもしれない。それでも、たとえ明日は終わりだとしても、明日に向かって、今日、リンゴの木を植えよう。明日が見えなくても、今日を生きよう。このように生きるのがキリスト者であり、そのように前向きに生きる群れが教会なのです。
聖書の中でコヘレトは悲観的に見えますが、たじろがず、諦めないのです。そもそもこれが聖書から見えて来る生き方です。創造主なる神様が私たちに命を与えてくださいました。私たちの命は、神様から与えられた命です。この命を、キリストは御自分の命と引き換えにし、十字架で贖ってくださいました。それほどまでに私たちをキリストは愛してくださいました。キリストによって贖われた、この命を私たちは生きるのです。
束の間の人生ですが、私たちは決して一人ぼっちではありません。私たちには教会があります。ここに高井戸教会という信仰共同体があります。今日もこうして、皆がこの教会に招かれ、集められています。一緒に、明日に向かって種を蒔こうではありませんか。そのように前向きな生き方へと神様は私たちを押し出してくださいます。今、世界は先が見えず、混沌の暗闇に向かっているようで、私たちも心が萎えそうです。悲観的になってしまいそうです。けれども、今日の聖書の御言葉は私たちに、明日に向かって種を蒔け、と教えてくれます。そのように前向きに生きるように、主は私たちを招いてくださいます。高井戸教会の群れが御言葉によって健やかに、しなやかに歩むことができますように。
(2026年1月25日 特別伝道礼拝説教)
