日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 102号

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巻頭説教「天からの権威」マルコによる

福音書11:27〜33/詩編68:33−36

「そこで、彼らはイエスに、『分からない』と答えた。すると、イエスは言われた。『それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。』」(マルコ11:33)

「一行はまたエルサレムに来た。」と27節の最初にあります。主イエスと弟子たちは、エルサレム近郊の村に滞在して、都と近郊の村を行き来していました。主は、エルサレムに来る度に、神殿に行き、そこで教えておられました。それは、父である神を礼拝する場所にまず行って、そこで父なる神と出会うという、神を信じる者としてまず行うべきことを、主イエスが行っていたことを示します。「神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、言った。」とあります。この人々は、ユダヤの最高法院に属する人々です。それは彼らが人間の権威を代表する者として、主イエスの元にやって来たと、見ることが出来ます。

彼らは主に問います。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」この彼らの問いかけは、主イエスが両替商や鳩を売る者たちを神殿から追い出した、宮清めのことを指しています。ここで何の権威で、と祭司長らは、主イエスに問います。彼らは、主イエスはラビとしての訓練を受け、そして神の前で任職されていない、だからそのような権威を持ってはいないのだという前提からこのように問いかけます。主は彼ら祭司長らの問いにお答えになります。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。」主イエスは、このように彼らに問い返すことによって、神殿における権威の問題、更に言うならば、神が与えられる権威とは何かについて、深めようとされます。このように主は、祭司長らの問いかけに対して、逆に彼らに問うことで、神の前での権威とは何か教えようとされたのです。

「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」と主は言われます。天からというのは、神からのものであることをいいます。そして人からというのは、この世のものであることを指しています。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。」とは、ユダヤ人指導者が洗礼者ヨハネをどのように見ていたのかが現れています。彼らの中にはヨハネの洗礼を受けた者もおりました。しかし、彼らの主な意見は、ヨハネはラビになる訓練も受けずに、荒れ野で教えるいかがわしい者であるというようなものだったのです。ですから、洗礼者ヨハネについて、主の問いかけに対して、「天からのものだ」とは言えない彼らの状況があったのです。 「しかし、『人からのものだ』と言えば・・・・・・。』彼らは群衆が怖かった。」と32節にあります。彼らは、ヨハネのことを、制度に従わず勝手に教えている、と考えておりました。ですから、本心ではヨハネの権威は「人からのものだ」と言いたかったのです。しかし、そのようはっきりと言えない事情がありました。それは「彼らは群衆が怖かった。」とあるように、多くの人々が「皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。」とヨハネの洗礼は神からのものであると信じていましたので、ここで自分たちの意見を言えば、それを見ている群衆から非難されてしまう、そのようなことを考えたのでした。

ユダヤ人の指導者たちのこのような様子を見ておりますと、御旨に聴こうとしない人間の辿る道が示されています。それは、二つのことを示します。一つは、自分たちの意見を群衆が怖くて、いうことが出来ないという、指導者としての彼らの資質の問題です。彼らが真の指導者であるならば、群衆がどう思おうと、自分の主張を正々堂々と述べれば良いのです。かつて預言者達は、時の政治指導者に迫害されながらも神の言葉を人々に告げました。そのようなことは、人々を導く指導者として必要なことです。しかし、彼らは群衆の反応を恐れて自分の主張をすることができませんでした。それでは指導者として失格です。また、第二の点は、彼らが御旨に聴こうとしない、あるいは聴くことに怠慢になっていたため、洗礼者ヨハネの存在を見誤っているということです。神がヨハネをイエス様の道を備える者として召したにもかかわらず、多くの訓練を受け、み言葉に親しんできたはずの彼らが、それに気づくことができなかったということです。そして彼らは救い主イエスキリストの存在をもそのようにして見誤るのです。このことは、私達に信仰者としてあるべき姿を示しています。いくら聖書の内容を暗記するまで聖書に親しんでいたとしても、また、多くの神学書を読んで神学の知識を得ていたとしても、御旨に聴くことをしない人間、謙虚に神の前に祈ることをしない人間は、神の働きかけを知ることが出来ないということです。

彼らは33節にありますように「分からない」と答えます。それは、彼らが彼らなりの考えはあったにもかかわらず、それを主張することが出来なかったことを示します。主は「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」と言われます。それは、彼らの心の中をすべて分かっておられる神の御子との言葉として語られます。彼らが「人からのもの」であると、答えたならば、そこで、「それは違う」と、主イエスは彼らに教えることが出来たはずです。しかし、ユダヤ人指導者たちが、心を閉ざして「分からない」と答えたために、彼らが主イエスから教えて頂く機会も失ってしまったということです。そのような彼らの姿は、神の前で心を閉ざす人間の姿を示します。私達は様々な人間関係がありますので、人の付き合いの中では心を閉ざすこともあるかも知れません。しかし、神の前では心を閉ざしてはなりません。すべてを知っておられ、私達を救いに導いてくださるお方の前では、私達は常に心を開き、御旨を求め続けることで神の導きを受けて歩むことが大切なのです。

(2025年11月16日)