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高井戸教会だより 101号
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巻頭説教
「苦難のメシア」
マルコによる福音書8:31〜9:1
イザヤ書53:1−5
牧師 布村伸一
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マルコ8:34)
「あなたは、メシアです。」との信仰告白を受けられた主イエスは、弟子たちに教え始められます。その内容は、弟子たちにとって衝撃的なものでした。ユダヤの指導者達からのけ者にされ、殺されて、三日目に復活することになっているという、弟子たちからすれば、自分たちのこれまで考えているような、救い主、メシアの姿とは異なっていたからです。
32節に「しかも、そのことをはっきりとお話しになった。」とありますように、主イエスはこの時、受難についてイザヤ書53:3からの預言の実現として明白に語られます。しかし、単に虐げられて死ぬとことだけではなく、「三日の後に復活することになっている」とお話しになるのです。十字架の死で終わるのではなく、復活への希望が語られています。にもかかわらず、この時の弟子たちは最初の主の言葉の印象が強く、後の復活の希望が聞こえないようでもあります。これを聞いたペトロは、先生である主イエスを諫めます。それは、自分の思いに囚われた人間の、神を信じない態度を表しています。わたしたちは神がこうあるべきと決めつけるのではなく、神がわたしたちの救いへの道を決定している、そして信じる者達をそこに導いてくださる、そのことに目を向けるべきなのです。主イエスを諫(いさ)めたペトロに対して、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と叱りつけます。これはかなり厳しい叱責の言葉です。ペトロの口を通して語られた、主を諫める言葉は、父である神が定めた主イエスの御業を妨げる言葉でもありました。ペトロが主イエスを諫めたことは、神を人間の思いの元に置こうとすること、すなわち神を人間の思うがままにしようとすることになるのです。そのことに対して、主は「サタン、引き下がれ」と仰ったのです。
その後、主イエスは、群衆と弟子たちを共に呼び寄せて「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と主に従う者への招きの言葉を述べられます。それは、自分を第一にするのではなく、神を第一とする人生を送るようにという主イエスの招きの言葉です。私達がこのような神中心の生き方を行うならば、そのことでこの世の様々な人間中心な事柄との戦いが待っています。それは自己実現こそが人生の目標であるというような、人間中心主義との戦いでもあります。そして、そのようなものとの戦いは簡単ではありません。神の教えをこの世で実現しようとするとき、多くの妨げに出会い、時にはそのことに押しつぶされそうにもなるからです。そこで信仰を貫き、主イエスの教えに従うには、私たち一人一人が「自分の十字架を背負って」主に従う覚悟が求められるのです。主イエスの十字架は、私達の罪の赦しのために主が犠牲になられたことによって表される非常に重いものです。私たち一人一人が負うべき十字架と同じではありません。しかし、主に従う者たちが負うべき十字架は、苦難の中にあるメシアが負われた十字架の苦しみに連なるものです。それを十字架の主が共に負ってくださるのです。35節からのところでは、自分の十字架を負って主に従う者の救いについて記されます。自分本位から神を中心にする生き方を歩む者への励ましの言葉が記されるのです。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者はそれを救うのである。」とは、自分本位に生きている者は永遠の命を失うが、主イエスのため、福音のために生きる者は永遠の命を得ることができるということを表します。
福音を恥とせず、誇りとするような信仰を持ち、永遠の命への希望を持つ者には神の国への希望が与えられていると、主イエスは教えます。ですから、私達は神の国を希望として歩む歩みを止めてはなりません。たとえそれが困難の中にあっても、共に歩んでくださる主がおられます。そのために主は十字架への道を歩まれたのです。私達は、自ら進んで苦難の道を歩まれ、信仰を持って歩む私達一人一人の苦難に寄り添って下さる、主に従い続ける者でありたいと願います。
(2025年7月13日主日礼拝説教)
