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高井戸教会だより 100号
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「 御言葉を聞いて受け入れる人たち 」
―マルコによる福音書4章13~20節 詩編110編105~112節-
日本キリスト教団高井戸教会牧師 ・ 布村「ぬのむら」 伸一「しんいち」
「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」(マルコによる福音書4章20節)
今日の箇所では、主イエス御自身が種まきのたとえの解説をなさいます。13節で「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。」と主は仰います。ここで主は、「わかる」と「理解できる」という二つの言葉を使っています。「わかる」とは、知的な理解、すなわち人の言うことが分かると言うレベルのこと、そして、「理解できる」とは、深く霊的に御言葉を理解することを指しています。御言葉に聴く私たちは、「理解できる」ことを目指す必要があります。でないと、せっかく主イエスにより「神の国の秘密」が打ち明けられているのに、それを理解できないことにも成りかねないからです。
14節から20節にかけて「種を蒔く人」のたとえの意味が主によって語られます。このたとえの種を蒔くとは、御言葉をこの世に告げることをたとえています。種を蒔く人が種を蒔きます。すなわち主イエスが神の国の種である、御言葉を蒔いたのです。種は土の上に落ちました。間もなく芽を出します。蒔かれた種は、芽生えて一日一日と成長します。そして、この芽は、種に逆戻りすることはありません。そのように、私たちに語られた神の言葉は、一旦蒔かれたならば、それは収穫までのコースに乗ったことになります。種が蒔かれたということは、後戻りできない収穫までの時が刻み始めたことを示しているのです。
16節からの箇所には、石だらけの所に蒔かれた種のように、ある人々は、芽は出ても、困難や迫害が起こりますと、たちまち信仰は枯れてしまうように、捨て去られてしまいます。このことは、御言葉による忍耐を大切にしない者への警告が述べられています。また、18節からのところにあるように、茨の中に蒔かれた種の場合はどうでしょうか。この人たちは御言葉を捨て去りはしません。信仰を途中で止めてしまうこともありません。場合によってはずっと教会生活を続けるような人でもあるのです。茨の中にいることを問題にしなければ、世間の地位もあり、教会生活の経歴も古く、教会の代表的な信者として選ばれることもあるような人です。ただ、良い土地に蒔かれた種との決定的な違いは、実を結ばないということです。茨というのは、害が多く、益となるところ少ないもので、しかも、枝を広げて、実際は地の養分をほとんど吸い上げてしまいますので、他の植物は育つことができないのですが、他の小さな植物を守るようなポーズを作ります。そのポーズにだまされて、茨の陰に頼ろうとする者が出てくるのです。信仰は止めない、けれども、この世的な栄えを追う事も止めない、そのような二股をかけたような生き方がここでたとえられているのです。
そして、20節からのところにあります、良い土地に蒔かれた種は、神の前での本来の人間の姿を現しています。道端や石だらけの所や、茨の中に種が落ちるのは例外であって、原則として、多くの種は良い土地に蒔かれるのです。それが当然のこととしてあるのです。主は蒔かれた種に、三十倍、六十倍、百倍の実りを期待しておられます。百倍とはずいぶんと大きな実りです。しかし、終わりの収穫の時は、そのような実りが、神によってもたらされるのだと、イエス様は告げておられます。また、私たちは、20節の「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり」という、主の御言葉に注目する必要があります。「御言葉を聞いて受け入れる人たち」こそが、神の国に入ることができる人たちであるからです。御言葉を受け入れるとは、私たちの心の中に御言葉を迎え入れ、心から歓迎することを示します。それは花婿と花嫁の関係にたとえられるかもしれません。そして、御言葉を聞いて受け入れる者に与えられるのは豊かな祝福です。それは三十倍、六十倍、百倍の実りとして表されます。主の福音のために、それを受けるために、すべてを明け渡した者が受ける実りは、このような豊かな祝福となるのです。
(2025年2月23日 主日礼拝説教)
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