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高井戸教会だより 98号
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「 何を求めて生きるのか 」
― アモス書5章4~6節 ルカによる福音書11章1~13節 ― 日本キリスト教団狛江教会牧師 ・ 高井戸教会代務教師 岩田(いわた) 昌(まさ)路(みち) >
求めなさい、そうそれば、あたえられる。探しなさい、そうすれば、見つかる。門をたたきなさい、そうすれば、開かれる。誰でも、求めるものは受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる。 (ルカによる福音書 11章9-10節)
巻頭に記された聖書の言葉は、日本社会において、「求めよ、さらば与えられん」という文語訳で広く知られています。これを口ずさむ者たちに「よーし、やってみよう!」という前向きな気持ちを引き起こさせる言葉としてよく用いられてきました。この聖句が積極的な人生への招きの言葉として日本社会に浸透していることに大きな意味があると思います。
一方、この聖句が聖書そのものの文脈を離れて世の人々の心の中で一人歩きしてしまっていることも事実です。これは単なる人生訓ではありませんし、ガンバリの勧めでもありません。信仰によって正しく理解されるべき聖書の言葉なのです。
「求めよ、探せ、門をたたけ!」という三つの命令形の言葉が続いています。とてもわかりやすい言葉ですが、文章として意味がはっきりしない印象があります。何故かと考えますと、ここには、何を求めるかについて記されていないからです。
一体、何を求めるのか。何を探すのか。どのような門をたたくのか。今、自分は何を求めているのか、という問いはとても大切です。自分が何を求めているのかということと、自分が今どのような生き方をしているかということは、深く結びついているからです。自分の願い求めていることにこそ、自分の生き方がはっきりと現わされてくるものです。
ルカによる福音書11章1~13節から、二つのことを聴き取りたいと思います。
第一に、この箇所の前半において、ある弟子が「わたしたちにも祈りを教えてください」(1節)と問いかけて、主イエスが「祈るときには、こう言いなさい」(2節)と教えてくださった祈りの後に、「求めなさい」という主イエスのみ言葉が記されているということです。ここで主イエスが教えておられる祈りは代々の教会が大切に受け継いでいる「主の祈り」の原型です。私たちの祈りの生活の中心にある祈りです。この「主の祈り」を祈りつつ生きることと、「求めよ、探せ、門をたたけ」という言葉にはとても深い関係があるのです。
第二に、最後に「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(13節)と書いてあることです。このみ言葉を聴いて、大切なことに気づかされます。巻頭の聖句には、何を求めるのかということだけではなく、誰に求めるのかということが、記されていなかったのです。私たちには自明のことですが、求めるべきお方は、天の父なる神にほかなりません。天の父は良いものを与えてくださる。そして、天の父が求める者に与える良いものとは聖霊であると約束されるのです。聖霊とは神さまご自身です。聖霊が与えられるということは、神さまが聖霊として私たちの内に働いてくださるということです。
つまり、二つの大切なことをまとめて申し上げます。「求めよ、探せ、門をたたけ」という聖句が示す具体的姿は、「主の祈り」に生きることであり、父なる神に聖霊を求めることである、ということです。しかもこの二つのことは深く結びついており、主の祈りに生きることは、すでに聖霊の導きの中にあるということでもあります。
先ほど、この聖句が世の中で一人歩きをしている現実があると申しました。世の人々は、何を求めているか、誰に求めるかを考えることなく、自分の身勝手な求めを正当化してしまいます。それは、私たちが祈るということにおいても同じことが起こります。私たち人間は祈ることにおいても身勝手さを発揮するのです。
私たちが信仰の確信を得たいと願って、熱心に、求め、探し、門をたたき始めるときに、わかってくることがあります。それは、すでに神さまが主イエスによって、私たちを求め、探し、心の扉をノックし続けておられるということです。主イエスは私たちを待っておられるのです。
教会は聖霊を求める祈りを大切にしています。神さまが聖霊としてお働きになることを期待して待つお祈りです。この祈りは教会において第一の祈りとも呼ばれます。主日礼拝で説教者の語る言葉が神の言葉として語られ聞かれるためには、聖霊なる神の働きが不可欠なのです。私たちは本来、自分の知恵や経験や力によって、神さまを「天の父よ」と呼ぶことはできませんし、「イエスは主である」と告白することもできないのです。私たちは、聖霊の導きによってこそ信仰に生きることができるようになったということを、いつでも想起するべきです。
「何を求めて生きるのか」というこの説教が目指すのは、高井戸教会に聖霊を求める祈りが満ち溢れることです。新来者、求道者の皆さんにもお勧めします。聖霊を求める祈りを始めてください。求道の生活とは祈り始める生活です。誰もが「主の祈り」を口ずさむことができます。聖霊の導きを祈り始めることができます。そこに神さまとの対話が始まるのです。それは素晴らしい恵みの世界です。あなたが神さまに心を向けて祈り始めることを、神さまご自身が待っておられます。神さまは喜んであなたの祈りに何らかのかたちで答えてくださるでしょう。自分が祈り願ったとおりではないかもしれません。神さまは私たち以上に私たちのことをご存じであられるのです。ですから、神さまを信頼してよいのです。祈りは必ず聞かれます!
預言者アモスは、神の民に対して「わたしを求めよ、そして生きよ。」(アモス書5章4節)という主なる神のみ言葉を語りました。ここにも「何を求めて生きるのか」ということが明らかにされています。私たちが求めるべきお方ご自身が語られているのです。あなたも神さまに招かれているのです。真実な求めに生きるために!