日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 97号

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「 信仰の旅路を行く者たち 」

― ヘブライ人への手紙 11章13~16節 ― 牧師 七條(しちじょう) 真(まさ)明(あき) >

ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。
だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を
準備されていたからです。          (ヘブライ人への手紙 11章16節)

 ヘブライ人への手紙の第11章は、旧約聖書の中にその名前を見出すことができる信仰に生きた人たちの名前を列挙するようにしながら、一人ひとりの信仰の歩みを、一章全体にわたって記している箇所です。

 いろいろな人の名前が挙げられます。しかし、その中で誰よりも長くそのスペースを割いて記しているのは、8節からの部分に出て来るアブラハムという人物、信仰に生きた一人の人のことです。その8節にこうあります。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」。

 アブラハムという一人の人間の旅立ち、神さまから呼び出されて、行き先がどこであるかを知らないままに故郷を離れ、出発する一人の人の歩みがあった。その歩みの詳細は、旧約聖書の創世記において第12章以下に記されています。

 創世記は、「初めに、神は天地を創造された」という言葉から始まり、この世界は、神さまが創造された世界であることをまず語ります。私たちが生きるこの広い世界、空に輝く太陽や月、つまり天体のことまで語られて、宇宙を含めた天地万物の創造という非常に大きなスケールの事柄から、聖書は語り始めるのです。

 しかし、そこで、この世界に生きるようにと、やはり神さまがお創りになった人間が、ほどなく神を捨てて、神に背を向けて生きるようになった。そのことが記されます。けれども、神さまは人間をお見捨てにはなりませんでした。もう一度、人間が神さまへと向き直って、神を信じて生きる者になる。神を愛し、人を愛して生きる者になる。そのための、人間に向けられた救いの御業を始めていこうとされるのです。私たちを救おうとなさる、その神さまの御業を、聖書はその最後、新約聖書の終わりに至るまで語っていきます。

 そして、私たち人間の救いの御業を、神さまがどこからお始めになったかということについて、創世記は、アブラハムという一人の人を呼び出されるところからお始めになったことを語ります。創世記は、その第12章から、神さまの呼びかけに応えて、行き先も分からないままに出発した一人の人の歩みを語っていきます。

しかし、そこで、神さまの大いなる御業を語ることを一旦やめて、アブラハムという一人の人の人生について語り始めたという訳ではありません。天地万物、まさに世界と宇宙の創造に関わられたその神さまが、やはり神さまのなさる御業、神さまの働きに関わることとして、一人の人間、その人生に関わっていかれる。アブラハムの旅立ち、出発、その人生の歩みは、そのような神さまとの深い関わりの中にあるものとして、創世記は語るのです。そのアブラハムの歩みを要約するようにして、ヘブライ人への手紙第11章は記します。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」。

 アブラハムの人生の旅路、その信仰の旅路には、多くの困難や試練が待ち受けていました。しかし、アブラハムは、その信仰の旅路の行き先は知らずとも、神さまが与えてくださる土地に行き着くであろうことを知っていた。第11章10節は、そのことをこう記します。「アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです」。

 16節には、慰め深い言葉が語り出されています。「だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです」。

 試練があり、困難や悲しみの日々があり、また自分で思い返すのも恥ずかしくなるような出来事さえあったりする私たちの人生です。神さまの前に、そのまま差し出すことなどとてもできないような人生を歩む私たちです。しかし、神ご自身は、そのような私たちの神と呼ばれることを恥とはなさらない御方だというのです。

 高井戸教会で毎年捧げられる召天者記念礼拝では、出席された方々に「高井戸教会(角筈教会)在天会員名簿」が配られます。それは、角筈教会を前身とする高井戸教会という地上にある一つのキリスト教会に連なって信仰の旅路を歩んだ人々のリストです。天という故郷、聖書が私たちのための故郷として神が用意していてくださる場所だと語るその天がどこであるかを見ることができない私たちです。しかし、私たちにはその行き先としての天がどこにあるのか分からなくても、その私たちに神が働きかけられ、信じて歩むように、信仰の旅路を行く者たちの一人にあなたもなるように、と神さまが呼びかけておられる。そのことを、この在天会員名簿は証ししてくれているものだと思います。

 私は、牧師である前に、一人のキリスト者として自分の歩みを覚えつつ、在天会員名簿に見出すことができる、私が高井戸教会で交わりを与えられた方々一人ひとりのことを思います。神さまが呼び出され、神さまに働きかけられて、信仰の旅路を歩んだそのお一人おひとりの歩みにどれほど助けられ、励まされて、自分もまた信じる歩み、信仰の旅路を今まで続けて来ることができたか。そのことを思わずにはおれなくさせられます。

 私たちは、信仰の旅路を歩む人々の群れの中に生きる。その中でこそ、共にその旅路を行くことができます。私たちの行き先である天がどこか分からなくても、そこへと向かって自分に与えられた人生の旅路を歩んでいくことができる。確かなこととしてそう思うのです。

 どうか、信仰を与えられ、高井戸教会に生きるみなさんにとって、そのことが確かなこと、真実なことでありますように。私たちが、与えられた人生を、信仰の旅路を行く者たちの歩みとして、共に歩み抜くことができますように。

(2023年11月5日 献堂記念礼拝・召天者記念礼拝における説教より)