日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 95号

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「 苦しみをも恵みとして 」

― フィリピの信徒への手紙 1章27~30 ― 牧師 七條真明/p>

ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。……あなたがたには、キリ ストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられ ているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いて います。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです              (フィリピの信徒への手紙 1章27~30節)

フィリピの信徒への手紙は、使徒パウロがフィリピの教会に宛てて書き記した手紙であり、彼がイエス・キリストを宣べ伝える中で捕らえられた、その牢獄において書かれた獄中書簡の一つです。

その手紙の中で、パウロは一つの勧めの言葉を記します。「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」。あなたがたのなすべき唯一のことは、キリストの福音にふさわしく生活することだとパウロは語りかけます。日常生活のすべてにキリストの福音が浸透している。そういう生活を送るように、と呼びかけるのです。

なんと難しい要求だろうか。自分のような者には到底無理な話だ。誰もがそう思うような勧めの言葉かもしれません。しかし、パウロがこの勧めの言葉に込めた思いはどのようなものであったのでしょうか。

28節に、「反対者たち」という言葉が出てきます。キリストの福音に反対する人々に脅かされて、フィリピの教会に生きる人々がたじろいでいる。狼狽している。そのような状況の中で、キリストの福音にふさわしく生活することが妨げられ、困難になっていた。パウロは、そのようなフィリピの教会の人々に、励ましの言葉、勧めの言葉を届けたいと強く思ったのでした。

キリストの福音に反対する存在や何らかの力によって、教会に生きる者たちがたじろぎ、狼狽してしまう。キリストの福音にふさわしく生活することが出来なくなってしまう。それは、現代のキリスト教会に生きる私たちがしばしば置かれている状況でもあるのではないでしょうか。

キリストの福音とは何でしょう。神の御子イエス・キリストが、十字架の死と復活によって、罪と死の力に既に打ち勝っていてくださること、そのことを通して、私たちの罪が赦され、私たちを永遠の命に生かす。そのような救いのよき知らせです。簡潔に言うならば、イエス・キリストの内に現れている、私たちに向けられた神の愛そのもの、それが福音だとも言えます。

そのことを踏まえるならば、キリストの福音にふさわしく生活するということは、イエス・キリストの内に現れている神の愛を信じて生きる、ということです。

しかし、神の愛に対する疑いの思い、またそのような思いを抱かせるものが、私たちの内と外にどれほど多くあることでしょうか。神の愛などどこにあるのか、そんなものを信じて何になるのか、そもそも神などどこにいるのか、いたとしても全く無力な存在ではないか。そういう声がさまざまなところから聞こえてくるのです。

けれども、そこに、牢獄から発せられる

一つの声が届けられるのです。キリストの福音に反対する声に大いなる否を唱える声です。使徒パウロの声が響いてくる。「ひたすら福音にふさわしい生活を送りなさい」。

「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活をせよ」。このパウロによる勧めの言葉は、戦いを促す言葉、私たちに一つの戦いを戦い抜くように促している言葉です。その戦いとは、キリストの福音に固着する戦い、どんなことがあってもキリストの福音を良き知らせとして信じる戦いです。

29節で、パウロはこのように語ります。「あなたがたには、…キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」。「キリストのために苦しむこと」。特別な苦難を考える必要はないと思います。私たちは、この世に生きて、誰もが何らか

の苦しみを背負いながら生きているでしょう。その中で、神の愛にしがみついて、キリストの福音に固着するようにして生きるのです。その時に、私たちの背負う苦しみは、キリストのための苦しみに既になっているのだと思うのです。

苦難があるから愛されていないのではない。苦難にもかかわらず、私は神に愛されている。そのことが、キリストの福音の中にはっきりと現れ、福音を信じる戦いの中で見えてきます。その時に、苦難がキリストのための苦難として、恵みの意味を帯びてくる。そうなのだと思います。

「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」。キリストの福音を福音として生きる幸いの中に、しっかりと立たせていただきたい。そう願います。