日本基督教団 高井戸教会

教会だより

  1. ホーム
  2. お知らせ・教会だより
  3. 教会だより
  4. 高井戸教会だより 94号

高井戸教会だより 94号

教会だより

「教会は教会らしく」

― マルコによる福音書14章3~9節 ― 学生 髙橋幸(4月より日本基督教団中渋谷教会伝道師)

イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。                         (マルコによる福音書14章3~9節)

 今日の箇所に登場している女性は、壺を粉々に壊して、自分を打ち砕いて、イエス様に香油を注ぎました。それは、彼女がその時その場所でできる最大の奉仕でした。しかし、とても高価な香油をそのように使うことは、周りの人々からすると非常識な行いでした。無駄遣いだと批判され、他の選択肢を用いて文句を言われてしまいます。

 一生懸命行ったことが、周りの人に受け入れてもらえない。それどころか批判の対象になってしまう、ということは信仰生活においてしばしば起こることです。礼拝はキリストを信じる者にとってはとても大事なものです。キリスト者は、礼拝の時間を重んじ、心も体も主に捧げます。しかし、そうでない人からすれば、キリスト者の礼拝は全くもって無駄な行為であり、無駄な時間に思われるでしょう。もっと有効な時間の使い方を提示されるかもしれません。イエス様を中心とする生き方は、ある人から見れば無駄だらけなのかもしれません。それでは、イエス様はこの生き方をどのように見ておられるのでしょうか。

 イエス様は、この女性の思いと行いを、分かってくださり、良いこととして受け止めてくださいました。私たちは限られた時間の中を生き、限られた場所の上に生きる、限られた存在です。心で感じることも、行うことができることも、どれもこれも限りがあります。しかし、かぎりある存在であることに、足りない、意味がない、無駄だと文句を言ったり、もっとこうすればよかった、ああすればよかったと後ろばかり向いていることを、神様は望んでおられません。できる限りの中で、できる限りをささげて生きていくことを、神様は受け止めてくださり、喜んでくださいます。

 そもそも私たち人間は、本当は滅びゆくものでした。滅びゆくものは何をしたっていつか滅びるので、何をしても意味はなく、全て無駄です。けれども、イエス様が私たちの代わりに滅びを背負ってくださいました。そして、復活の命を与えてくださいました。私たちは、将来の復活に希望を持って今を生きることがゆるされています。何をしても無駄だった世界は終わり、神様のために自由に何でもおささげすることができる世界がはじまったのです。ここに集う一人一人が、意味ある命として、それぞれのできるかぎりを、神様におささげすることができるのです。そしてそのできるかぎりの業を、神様は受け止めて大きく用いて くださいます。

何が無駄で、何が重要なことかを決められるのは、この世界の主である神様です。その神様が、私たちの小さな業を、私たちの礼拝を、私たちの生き方を、受け止めてくださいます。イエス様によって、全てを意味あるものにしてくださいます。そのような信仰を与えられることを祈り求めたいと思います。

 父なる神様、あなたが与えてくださった意味ある命に感謝いたします。あなたはできるかぎりのことをしようとする私たちの心を分かってくださいます。そしてイエス様によって、意味あるものにしてくださいます。復活の希望に生かされつつ、小さな業を大きく用いてくださる主を信じる信仰をお与えください。このお祈りをキリストの御名によって祈ります。アーメン。

(2023年3月12日 主日礼拝説教)