日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 89号

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「救い主を迎えるために」

― ルカによる福音書 2章8~20節 ― 牧師 七條(しちじょう) 真明(まさあき)

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになった」。最初のクリスマスの夜、野原で羊の群れの番をしていた羊飼いたちに天使が告げた救い主誕生の知らせです。その時以来、一年をどのような思いで振り返る人にも、クリスマスはやってきます。たとえこの年がどれほど苦しみや悲しみに満ちていたとしても、クリスマスの天使は、「恐れるな。今日…あなたがたのために、救い主がお生まれになった」と語り告げるのです。

近年、地震や台風、未知のウイルス等、自然の猛威を思い知らされることが多くなりました。私たち人間の存在と力は、どれほど小さなものなのかを痛感させられます。私たちの誰もが、恐れや不安、焦りや苛立ち、少しの希望と諦めの思い、いろいろな思いを心に抱えて生きています。

昨年、ある先輩牧師から、次のような言葉を聞きました。「羊飼いたちが、夜、野宿をしていたよね。それは外にいたということだね」。私は一瞬どういうことかと思いましたが、象徴的な意味での「外」を言っていることはすぐに分かりました。先輩牧師は、続けて語りました。「私たちは、いつでも内側を作って生きている。仲間や味方を作り、内側を作る。そうやって、仲間でない者、敵を作る。内側の利益を求め、内側の論理に囚われて生きる。そして、そこに不都合な真実があると、内側を守ろうとして、ひたすらその真実を否定し、隠そうとする。しかし、羊飼いたちは、そういう世界の『外』にいた、ということだよ」。

羊飼いたちが、恐れや不安を抱いていなかったなどということはないでしょう。誰よりも大きな恐れ、将来への不安を抱いていた人たちだと言えるかもしれません。しかし、彼らは外にいた。自分でどうすることもできないものを抱えて生きている者たちであった。自分たちの内側にとどまることで救われない自分たちであると知っていた。自分の中からは決して出てこないもの、私たち人間の内側からは決して生まれないものがあることを知っていた。だから、彼らは天使から語り掛けられた言葉を聞き取り、信じ、受け留めたのだと思います。

救い主が来られた時、その事実は、マリアやヨセフ、羊飼いたち等、わずかな人たちにしか伝えられなかった。私は、どこかでそう思い込んでいました。でも、本当はそうではなかったのではないか。マタイ福音書は、東の国から占星術の学者たちが救い主を訪ねてエルサレムへと来た時、ヘロデ王もエルサレムの住民も、それを聞いて不安を抱いたと記します。実は、救い主の訪れを聞いた多くの人たちがいた。でも、そのほとんどの人たちは外にいなかった。頑なに内側を作り、内側を守ろうとした。羊飼いたちのように、救い主の訪れを自分たちのためのものとして聞き取り、信じ、受け留めることはできなかった。それこそがクリスマスの真実だと改めて思いました。

私たち人間は内側を作ります。その外に出て、神を喜んで迎え入れることをしない。だから、クリスマスに来られた救い主は、家畜小屋の飼い葉桶の中に寝かされることとなりました。やがて十字架の上で殺されることとなりました。私たち人間の内側が、神を受け入れず排除したからです。

だからこそ、クリスマスのよき訪れを、今こそ聞き漏らさないようにしたいのです。自然の猛威の前にひとたまりもない小さな存在、それが私たち人間です。でも、クリスマスの天使は、そのような私たちに語り掛けているのです。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。あなたのために来られた救い主は、飼い葉桶に寝かされた赤ちゃんだ、と。私たち人間の中で最も小さな弱いもの、私たちの誰もがそうであった赤ん坊の姿で、私たちと同じように小さなものとして、救い主はあなたのために来られた。そこに、救い主のしるしがあるのだよ、と。

御子キリストは、頑なに内側を作ってやまない私たち人間を、ひねりつぶすために来られたのではありません。むしろ、大きな顔をしても小さな存在でしかない私たち人間と同じものとして、私たちのところへ来てくださった。私たち人間がどれほど小さなものであっても、神が私たちの味方でいてくださる。私たちと共にいてくださる神であられることが、クリスマスにおける御子、幼な子として来てくださったキリストのお姿の中に示されているのです。

私たちは、こう言うべきかもしれません。私たち人間が頑なに内側を作り、そこに閉じこもろうとする時、その内側に入り込むようにして、御子キリストは来てくださった。私たちの心のうちに、神を迎える場所を作ってくださるために。そのようにして私たちを外へと連れ出してくださるために。私たちの内側からは来ない救いを、外から持って来てくださる神と出会うために。

神の前では、すべてが知られています。だからこそ、天使が現れた時、天からの光に、羊飼いたちは非常に恐れたのでした。でも、「恐れるな」、恐れなくてよいのだ、と天使は語り掛けます。「今日あなたがたのために救い主がお生まれになった」からだ、と。その救い主があなたがたのためにもたらす光は、救いの光だからだ、と。神の愛の光、あなたがたを大きな赦しの光の中に置くために、救い主が来られたからだ、と天使は告げるのです。だから、神の御前では、どんなに不都合な真実でも隠す必要はない。自分の真実を隠し、恐れと不安を増幅させて生きる必要はないのです。

羊飼いたちは、救い主がお生まれになったベツレヘムへ赴き、御子キリストとお会いしました。そして、天使が告げてくれたとおりであり、神をあがめ、神を讃美しながら帰って行った、と福音書は記します。彼らが帰って行った場所は、羊たちが待つ野原であったでしょう。いつもの仕事が待っていたでしょう。でも、いつもの場所が、もはやいつもの場所ではなくなったのではなかったでしょうか。恐れや不安をもはや抱かなくなったというようなことではなかったでしょう。でも、「恐れるな」との天使を通して告げられた言葉、あなたがたのために救い主がお生まれになったから、ということを、彼らは、恐れや不安を抱く度に、生きた語り掛けとして聴き続けて、恐れと不安の外へと、自分の内側から、神を信じ、信頼して生きる外側へといつも出て行った。そうやって勇気をもって、望みをもって歩み出していったのではなかったでしょうか。

「恐れるな。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」。この天使が告げるクリスマスのよき訪れを、私たちのためのものとしてしっかりと受け留めたい。そして、将来に向けてどのようなことが待っているとしても、共に勇気と望みをもって歩み出していく。そのような歩みをご一緒になしていきたいと願います。

(2019年クリスマス讃美礼拝説教を一部改訂)