日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 87号

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「「帰り行く道」

― ルカによる福音書 15章11~24節 ―  日本基督教団久万教会牧師 小島誠志

父親と息子(弟)の話であります。息子が父親に言うのです。わたしがいずれ戴くことになっている分け前をいま・・ください。父親はいずれ成人になったら分けてやろうと考えていたでしょう。しかし息子は待てませんでした。いま・・くださいと言ったのです。

父親の束縛から一刻も早く離れたいと思ったのです。自分の本当の人生は父親から解放されたそこから始まると思ったのです。自由とはそうゆうものではないか、と。

父親は息子の要求にこたえました。分与する予定の財産を彼に与えました。「それから、何日もたたないうちに」「全部を金にかえて」「遠いところに旅立ち」と言われています。息子の逸る気持が表現されています。一刻も早く、自分の自由に使える金に代え、父親からできるだけ遠く離れたかったのです。

父親と息子のこの話は、神と人間のことを言っているのです。

人間は神に創造された存在です。土のちりで創られましたが、神の息を受けて「生きる者」になりました。人の存在は神の下もとにあるのです。神の下にある ― 神の束縛

の中にあるそのことに人間は不満を持ち始めました。そこでは人間の本当の自由な生活は始まらないのではないか。この束縛から解放されて、人間の人間らしい生活は始まるのではないか。

創世記3章はそのように人間が神から逃れる姿が描かれています。神はアダムとエバに言います。エデンの園のどの木から取って食べてもよろしい。ただ園の中央にある木の実だけは食べてはいけない。食べる

と死んでしまうから。

誘惑する蛇の言葉。「園にあるどの・・木・から・・も・取って食べてはいけない、などと神は言われたのですか。」神はそんなことは言われ

ませんでした。ただ中央にある木からだけは食べてはいけない、と言われたのです。蛇は人間の中にひそむ不満を引き出すためにこんな質問をしたのです。アダムとエバはこの誘惑にひき込まれました。どの木からも食べていいんですが、ただ中央の木から取ってはいけない、死ぬといけないからって言われるんですよ。誘惑者は言います。

死ぬことはありませんよ。はっきり見えるようになって神のように善悪を知るようになるんですよ。アダムとエバは中央の木の実を食べます。目が開けます。「神のように」。

彼らが神のように目が開けたと言うことは、もう神・の・下・で・生きなくていいということで

す。神と並んで、神から独立して、神なしに生きることができるということを意味しています。神が「死ぬ」と言われたのは神

なしに生きるようになる正にそのことによ

って人間はある・・べき・・人間・・として生きられなくなるということを意味していたのです。

まさにこのたとえ話はそのことを言っています。「何日もたたないうちに … 遠いところに旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして財産を使い果してしまった。」

父(神)から逃れた人間、そこで自由に自分の欲するままに生きた人間、その人間は自分の財産を使い果したのです。神から解放されて、自由に好きに生きれば、すばらしい生活が始まるか。始まりませんでした。与えられていた賜物を使い果しボロボロになったのです。創世記3章が言う通りこれはどこかにいた人の話ではありません。わたしたちのことです。

「何もかも使い果したとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べる物にも困り始めた。」悪いことが重なった、そう言えるかもしれません。しかし、好きなように生きて自分の賜物をムダにしてしまった人間にとって人生の出来事はすべて災難にしか見えないのです。人生のすべてが自分を追いつめるようにしか見えなくなるのです。食べる物にも窮し始めた息子は、そこでようやく父親のことを思い出します。「そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、あり余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここを立ち、父のところに行って言おう … 』」。我に返ったと言われています。しかし、「我に返った」と言っても少しも彼が立派だとかえらいとか言うことはできません。彼は父から相続した賜物を使い果して無一物になったのです。ボロボロになった。そこで「我に返った。」

彼の兄が言いました。「娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰ってきた」と。その通りです。おめおめと帰って行くのです。恥かしげもなく帰って行くのです。

「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い走り寄って首を抱き接吻した。」遠く離れていたのに息子を見つけたということは、父親は待っていたということです。息子がいなくな

ってずっと。今日か今日かと。息子が父親を見つけるより前に、父親が変り果てた息子を見つけました。自業自得、転落した息子を待っていました。待っているということは赦して待っているのです。赦すというのは自分が痛んで傷ついて待っていたのです。赦して待っている、そこにこのたとえ話をされたイエス・キリストの十字架があるのです。イエス・キリストの犠牲があるから、この息子は帰ることができるのです。

落ちるところまで落ちた息子を痛みを負いつつ手を広げて待つ父がいるから、彼はおめおめ・・・・と帰ることができるのです。

この放蕩息子はわたしたちです。

罪に汚れ切ったわたしたち、とり返しのつかない過去の傷を負ったわたしたち、そのわたしたちがいま帰っています。待っていてくださる父のもとへ。

父は帰って行くボロボロのわたしたちのために「一番良い服、指輪、履物」を用意して待っていてくださいます。盛装です。

神の祝宴に入って行く盛装です。

わたしたちは父なる神の用意していてくださる祝宴の時に向けて帰っているのです。

(2019年10月20日秋の伝道礼拝説教より)