日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 86号

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「どんなに小さな信仰でも」

― ルカによる福音書 17章1~10節 ―

使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」

                     (ルカによる福音書17:5~6)

主イエスは、1ミリにも満たない小さな「からし種」を用いて、信仰についてお語りになります。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」。

この御言葉に先立って主がお語りになったのは、主に従う者たちの間で、小さな一人をつまずかせることがないように、ということでした。しかし、主は、「つまずきは避けられない」とも言われます。主に従う者たちの中で、主を信じて歩む者を、そこから離れさせてしまうような「つまずき」の出来事が起こる。その現実を、主はよく分かっておられました。また、だからこそ、つまずきの出来事が起こってくる時に、どうするのか。誰かが自分に対して、一日に七回罪を犯したとしても、愛をもって戒め、際限なく互いの罪を赦し合って生きるのだ、と主イエスはお教えくださるのです。

しかし、弟子たちは、とてもできないことだと思ったのでしょう。だから、主に願うのです。「わたしどもの信仰を増してください」。私たちの信仰は小さくて、あなたのご命令に従うことができません。だから、信仰を大きくしてください、と言うのです。

それに対して、主は「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」と言われます。木に命じて海に根を下ろさせることもできない信仰は、からし種一粒よりも小さな、無きに等しいものだということでしょうか。いや、そのように理解するならば、主の御心を受けとめそこなうのだと思います。信仰が足りない。だから出来ない。そうではないのだ、と主は言われるのです。からし種一粒ほどの信仰があればいいのだ、と。主を信じること、それは自分の力の問題ではないのです。信仰とは、神の力を信じるということだからです。主を信じる者たちは主がお命じになることを行う。神ご自身がそのような群れを形作る力をお持ちであることを信じる。それが信仰であることを、主はお語りになるのです。

私たちは、自分の信仰の大きさを自分で測り、その小ささを嘆いたりします。あるいは、逆に、自分の信仰の大きさを過大に評価して空しく誇ってみたりするのです。弟子の一人であるペトロも、自らの信仰が他の弟子に勝ると誇ってみては、主を三度否定する自らの弱さを思い知らされました。自分の信仰は無くなってしまった。ペトロは、そのような状況に置かれたのです。

しかし、主イエスは、ペトロのすべてをご存じでした。ペトロが出会う「つまずき」の出来事を知っておられ、彼の信仰がなくならないように祈っていてくださいました(ルカ22:31~32)。ペトロよ、あなたはつまずく。しかし、私はあなたの信仰が無くならないように祈った。だから、あなたの信仰は無くならない。その信仰をもって立ち直ったら、仲間を力づけて、共に信仰に立つことができるようにしてほしい。主は、そのようにお語りくださいました。

主イエスが、私の信仰の灯が消えないように祈っていてくださった。だから、無きに等しいほど小さくても自分の信仰は無くならない。そのことが分かった時、ペトロは、主の御言葉をよく理解したのだと思います。ペトロは、繰り返して主を否定した自分を、限りない赦しの中に立たせてくださるために、主は十字架に死んでくださったことを知りました。信仰に生きる小さな一人として、この自分を主が覚えていてくださった。そのことを知ったのです。

主イエスは、私たちの信仰のために祈っていてくださる御方です。主のご命令に従うには信仰が足りないと思う時、主は言われるのです。どんなに小さな信仰でも、からし種一粒ほどであっても、それで十分だ、と。あなたは、その信仰をもって私が願うところに生きるのだ、と。愛をもって戒め合い、罪を悔い改め、赦し合って生きる。私たちのために主が祈り、私たちの小さな信仰を今日も支えていてくださいます。