日本基督教団 高井戸教会

教会だより

  1. ホーム
  2. お知らせ・教会だより
  3. 教会だより
  4. 高井戸教会だより 79号

高井戸教会だより 79号

教会だより

「キリスト者の自由」

― ガラテヤの信徒への手紙5章2~26節 ―

東京神学大学准教授 長山道(ながやま みち)

兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。
ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、
愛によって互いに仕えなさい。 (ガラテヤの信徒への手紙5:13)

 

自由とは何かという問題は、古くからあるものでありながら、今もしばしば問われているように思います。

ガラテヤの教会では、ユダヤ教から改宗した人たちが割礼などの律法遵守を主張していました。それに対してパウロは「キリストはあなたがたにとって何の役にも立たない方になります」(2節)と、キリストによる律法からの自由を主張しています。その一方で、「自分たちは罪の縄目から解放されたのだから、自由に振舞って良いのだ」と、好き勝手に振舞う人たちもいたようです。そうした人たちには、パウロは「霊の導きに従って歩みなさい」(16節)と勧めています。

「人は行いによってではなく信仰によって義とされる」ということと、「キリスト者にふさわしい生活をする」ということは、相反するものでしょうか。

例えば「神に喜ばれるためにそねみを捨てましょう」と言えばわかりやすいですが、本当は、そねむ人も神に招かれ、赦され、信仰を与えられるはずです。まずそねみを捨てたから神に愛されるのではないはずです。そねむこのわたしを神が顧み、御子が命を捨ててくださるほどに愛してくださったという福音に触れたから、自分自身を愛することができるようになり、他人を妬む気持ちが消えていくはずです。そうして、自分の思いや言葉や行いを知らず知らずのうちに支配していた、神以外の一切のものから自由になるのが、キリスト者の自由です。キリストの十字架と復活によって、わたくしたちは自由にされました。

もし復活のキリストから聖霊を与えられていなければ、霊の導きに従って歩むことは、自分の自然な傾向に逆らわなければならない、不自由なことでしかなくなってしまうでしょう。「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(22~23節)、こうした言葉が綺麗事にすぎなくなって、律法主義に陥るかのような思いにさせられるかもしれません。しかし聖霊を受け、信仰を与えられているわたくしたちは、無理に頑張る必要はありません。聖霊がわたくしたちを少しずつ変えてくださるからです。

「愛の実践を伴う信仰」(6節)という言葉は、「信仰者なら頑張って愛を実践しなければならない」という意味ではなくて、「信仰は自ずと愛の実践を伴うものだ」という意味です。「愛の内に働く信仰」と訳されることもあります。信仰を与えられているかどうかということは、外から見てもよくわかりません。しかし聖霊をいただいて、内面に信仰を与えられている人は、その信仰が自然とその振る舞いや行動や発する言葉に、愛という目に見える仕方で現れるということです。キリスト者の自由とは、よい行いをしなければならないとか、神を喜ばせなければならないという重荷からの自由でもあります。その人に働く聖霊が、植物が自然に実を結ぶように、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」をもたらすのですから、わたくしたちはただそれに従って生きれば良いのです。

「礼拝」という言葉は、英語でservice、つまり「奉仕」と同じ言葉です。礼拝の中で奉仕をするのは、第一にわたくしたちではなくて神です。神がまずわたくしたちに恵みをくださったから、とりわけイエス・キリストの十字架の出来事によって仕えてくださったからです。そしてわたくしたちも、与えられた聖霊に促されて、神に仕えます。礼拝堂から出て行って、それぞれが遣わされた場で、信仰の現れとして隣人への愛を現します。それも奉仕ですし、礼拝なのです。わたくしたちはどうやって主に喜んでいただこうか、特別なことを考え出したり探しまわったりする必要はありません。神がそれぞれに与えてくださった賜物に応じて、神が召してくださるところで -学校で、職場で、家庭で、あらゆるところで-信仰が自ずと愛となって現れるならば、それが神に仕えることであり、それが礼拝です。6日の間もまた、神への奉仕、礼拝となります。信仰によって義とされることを通してのみ、わたくしたちは本当に自由に、神と人を愛し仕える者とされるのです。

(2017年10月15日秋の伝道礼拝説教)