日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 78号

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「十字架を負って」
― マルコによる福音書 15章21~32節 ―

牧師 七條真明

そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。そして、イエスをゴルゴタという所―その意味は「されこうべの場所」―に連れて行った。    (マルコによる福音書 15:21~22)

キリスト教会に生きる者たちは、誰もが等しくイエス・キリストを救い主とする教会へと導かれた者です。しかし、どのようにして教会へと至ったのか、それは一人ひとり、実にさまざまです。マルコによる福音書第15章21節には、思いもよらぬ仕方で、主イエスとの関わりを与えられた一人の人が出てきます。それは、主イエスがゴルゴタの丘へと向かわれる途中、主イエスの十字架を、主イエスに代わって運ぶことになった「シモンというキレネ人」です。

ローマ帝国によって十字架刑が行われる時、犯罪人は、刑の執行場所まで十字架を自分で背負わねばなりませんでした。それで、主イエスもまた、十字架を背負ってゴルゴタへと向かわれたのです。しかし、主イエスの体は、体力の限界に達しており、十字架を背負って、ゴルゴタの丘までたどり着く余力はなかったのだと思います。そこで、ローマの兵士たちが、通りがかったキレネ人シモンに無理やり十字架を背負わせ、主イエスに代わって、その十字架をゴルゴタの丘まで運ばせたのです。

キレネ人シモンは、訳も分からぬままに、十字架を運ぶことになりました。この出来事が、その後の彼の人生にとってどのような意味を持ったのか、確かなところは何も分かりません。しかし、このキレネ人シモンについて、マルコ福音書は、「アレクサンドロとルフォスとの父」と記しました。この福音書の成立と深く関わる教会の人々がよく知っていたアレクサンドロとルフォスというキリスト者の兄弟がいたのだと思います。そして、その二人の父親であるシモンが、主イエスが十字架におかかりになった日に、その十字架をゴルゴタまで運ぶことになった出来事も、教会の人々によく知られていたのだと思われます。さらに、シモン自身もまた、主イエス・キリストを信じ、教会に生きる者となっていたのではないでしょうか。

シモンは、教会へと導かれ、自分が運ぶことになった十字架にかけられたイエスという御方が、私たちの罪が赦されるために、私たちに代わって十字架の死を死なれた救い主であることを知った。その時に、彼は、今日の箇所が伝える出来事がどのような出来事であったのかということを深く知ることになったのではないでしょうか。主イエスがおかかりになった十字架を、自分が背負って運ぶことになった。肩に食い込む十字架の重さを覚えている。

しかし、実は、それは、主イエスに代わって自分が負った十字架の重さというのではなかった。あの十字架は、自分がかけられるべき十字架であり、その重さは自分自身の罪の重さではなかったか。自分がかかるべき十字架を、主イエスが代わってその身に負い、死んでくださった。この自分の罪を、主イエスが背負ってくださった。主イエスの十字架の中に、どれほど深い神の愛が注がれているか、この自分を照らし救い出す愛の光が輝き出しているか。シモンは、そのことを知ったに違いないと思うのです。

そして、キレネ人シモンは、使徒たちの語る言葉を通して、マルコ福音書第8章34節以下に記される主イエスの語り掛けを自分自身への語り掛けとして聞くことになったのではないかと思います。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。キレネ人シモンのキリスト者としてのその後の歩みの中で、苦難に直面し、背負うべき自分の十字架を思わずにはおれない時が幾度となくあったのではないでしょうか。

しかし、その度に、シモンは、ゴルゴタに向かわれる主イエスの後を、十字架を負って歩んだ日の出来事を思い起こしたのではないでしょうか。そして、この自分のためにも十字架におかかりくださった主イエスは、復活なさって生きておられる御方として、この自分の歩みを導いていてくださる。たとえ、自分の十字架を背負わねばならないような時にも、もっと深いところから、この自分を支え続けていてくださる。そのことを覚えつつ歩んだのだと思うのです。

主イエスは、私たちとそれぞれの仕方で出会われる御方です。偶然のようにしか思えない出来事をも用いて、私たちをご自身の教会へと招かれます。主の十字架の愛に支えられながら、主イエスに従って行く共なる歩みへと招いていてくださるのです。