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高井戸教会だより 76号
教会だより
「今日は聖なる日。悲しんではならない」
― ネヘミヤ記7章72節後半~8章12節 ―
神学生 見城 康佑
総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(ネヘミヤ記8:9~8:10)
この箇所は、イスラエルの民の礼拝の場面です。彼らは、モーセの律法に定められた第七の月の一日目の安息日に広場に集まり、祭司エズラの律法の書の朗読を聞きました。民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていました。彼らは、律法の言葉を聞いて、神の民であるイスラエルがいかに神の御心に反し、神の前に罪を犯し続けていたかを思い起こしたのです。
この背景には、バビロン捕囚というイスラエルにとっての大きな苦難の歴史があります。神の民イスラエルは、ダビデ王の時代に大きな栄華を築きましたが、その後にイスラエルの王国には異教の神々が入り込み、偶像崇拝の罪を繰り返していきました。その結果、神はイスラエルをお裁きになりました。当時の大帝国バビロンによってイスラエルの多くの人々が連れ去られ、大事な礼拝の場所であったエルサレムの神殿が焼き払われることとなったのです。
使徒パウロはローマの信徒へ書き送った手紙の中で、律法はそれを行うことによって救われるものではないが、律法によって自分の罪を知るということを記しています(ロマ3:20)。私たちは、同様の経験を礼拝においてすることがあります。それは、私たちが礼拝で御言葉を聞くことによって自分自身の罪を知り、悔い改めに導かれるという経験です。教会でしばしば語られる悔い改めとは、自分自身の罪を知るということなのです。御言葉によって私たちが神の前には到底正しい者であることができない罪人であることを知り、同時に、そのような罪人である自分でさえも愛してくださり憐れんでくださる神を知るのです。そうして、私たちが自らの罪を知った時初めて、私たちは神の方に向き直ることができるようになるのです。
このような悔い改めの経験は時に涙を伴うものです。イスラエルの民に起こったこ
ともそのようなことであったと思うのです。まさに悔い改めをもたらす経験として、彼らの内に神の御言葉がのぞんだのです。しかし、ネヘミヤたちは言います。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」それは何故でしょうか。それは、礼拝は神の祝福を喜ぶものであり、捧げ物を携えて行き、主なる神の御前で共に食べ、私たちが日々の働きと共に主から頂いたものをすべて喜び祝わなければならないと定められているからです(申12:6-7)。
私たちも礼拝の中で主イエスの十字架の死にあずかる聖餐のパンと杯を喜び祝いながら食べて、飲みます。これは、喜びの食卓です。主イエスの十字架による赦しを共に喜び祝う食卓です。主イエス・キリストはその十字架の死を通して、私たちの罪の束縛から解き放ってくださったのです。だから、私たちは主日の礼拝ごとに、また聖餐の度に、主イエスが私たちのための救いを成し遂げてくださったことを喜び祝っているのです。確かに私たちは御言葉によって自らの罪を知り、悔い改めの涙を流すことがあるかもしれません。しかし、それはずっと続くものではありません。私たちは罪に悲しむ者ではなく、主の救いを喜ぶものとされるのです。