日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 75号

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「光なる救い主を迎えて」
― ヨハネによる福音書 1章1~18節 ―

牧師 七條真明

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。 命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 ・・・・言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。 それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。?(ヨハネによる福音書1:1~5、14)

「初めに言ことばがあった」。ヨハネによる福音書は、独特の仕方で始まる福音書です。 初めからあった言。神と共にあった言。神そのものであった言。そして、万物は、言によって成った。その言の内に命がある。 人間を照らす光そのものである命を宿した言。いささか謎めいているとも言える冒頭部分ですが、 やがて第1章の14節で「父の独り子」、17節で「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」と語られるに至って、 初めからあった言、人間を照らす光そのものである命を宿した言とは、神の独り子イエス・キリストのことだと分かってきます。

昨年、「ルビは神様を信じない」というアイルランドの短編映画を見ました。ルビという10歳の女の子が主人公です。 ルビが通う学校で、カトリックの司祭が、キリスト教信仰について授業をする場面が出てきます。 司祭が「神は・・・」と語ると、ルビは「神様なんて存在しません」と言い放って、司祭を困らせます。 ルビの母親が、「神父様を困らせてはダメ!」とルビを厳しく叱ります。しかし、ルビは、どこ吹く風で、 母親が目を離したすきに、窓から外へ飛び出して行くのです。

場面が切り替わり、ルビは墓地にいて一つの墓の前に座り込んでいます。そして、涙をこぼしながら言うのです。 「あれだけお祈りしたのに。あんなに一所懸命にお祈りしたのに」。ルビの父親は亡くなったのだと、その場面から分かってきます。 ルビは悲しくなると、父親のお墓のところへ来ているということなのかもしれません。 そして、「あれだけお祈りしたのに。あんなに一所懸命お祈りしたのに」とつぶやくルビの言葉に、 ルビが「神様なんて存在しません」と言った理由、また「ルビは神様を信じない」というタイトルの意味が分かってきます。

映画の最後には、つい笑ってしまうような場面も出て来て、ただ悲しいだけの映画ではありませんでしたが、印象深く心に残る映画でした。 私たちが生きるこの世界の中で、ルビのような悲しい出来事があった一年として、 この年のクリスマスを迎えている人がどれほど多くいるだろうかと思います。しかし、また改めて思わ されるのは、クリスマスは、ルビのような悲しみを抱えて今年のクリスマスを迎えている人たちのためでもある、 いやまさにそうだということです。

ヨハネ福音書が、クリスマスの出来事を、これもまた独特の仕方で語るのは、何よりも第1章14節においてです。 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。初めからあった言。人間を照らす光そのものである命を宿した言は肉となった。 そして、わたしたちの間に宿られた。ここに、ヨハネ福音書において、神の御子が人となって私たちの生きる世界へと来てくださったクリスマスの出来事が、 独特の言葉遣いで語られているのを私たちは見出します。

しかし、ヨハネ福音書は、ここで「言は人となった」と言わず、「言は肉となった」と語っていることが心に留まります。 聖書において、人間を「肉」と言い表す時、弱く、もろい人間の姿が語られているのだと言えます。 何か起これば、一瞬にしてこの世に生きていたところでの命が消え去ってしまう。

そのような弱く、もろい存在としての人間、死すべき存在としての人間です。けれども、初めからあった言、 神と共にあった言、神そのものである言、すなわち神の独り子キリストは、弱く、もろく、死すべき存在である私たちと同じ人間となってくださった。 弱さを、もろさを、死すべき肉の体を、神ご自身にほかならない御子が、ご自身のものとしてくださった。 神は、ご自身が、弱く、もろく、死すべき私たちと共におられる神であられることを、御子イエス・キリストを通して私たちに現された。 クリスマスの出来事とは、そのような出来事だとヨハネ福音書は語るのです。 ただ、第1章5節に、「暗闇は光を理解しなかった」とあることも忘れる訳にはいきません。

初めにあった言、肉となった言が私たちの間に宿った時、神の独り子イエス・キリストを、 私たち人間は理解せず、この方を十字架の死へと至らせたのです。 しかし、不思議にも、「暗闇は光を理解しなかった」と訳されているこの箇所は、「暗闇は光に勝てなかった」とも訳し得るように、 主イエス・キリストの十字架の死は、私たちが生きる世界を覆い、また私たちが抱え込んでいる神の御前における罪の力、 死の力に打ち勝つ十字架でもありました。

初めからあった言、人間を照らす光そのものである命を宿した言は、闇に負けることはない。 その御方の光は闇に打ち勝つ。闇に負けない光が十字架から輝き出している。 やがて、その確かな現れとして、主イエス・キリストのご復活の出来事が起こります。 十字架と復活のキリスト、この御方の光は、闇の中で輝いている光なのです。 「ルビは神様を信じない」という映画の中で、ルビが墓地で涙を流す場面は、私の中で、聖書が記す二つの場面と結びつきました。

一つは、十字架に死なれた主イエスが葬られた墓の前で泣くマグダラのマリアの姿であり、 もう一つは、それに先立って、十字架を前にした主イエスがゲッセマネの園で祈られたお姿です。 「この杯をわたしから取りのけてください」(マルコ14:36)と必死に祈られた主イエスの祈り。聞かれない祈り。 しかし、そこで神の御心が、御子キリストの十字架と復活が成し遂げられ、そのことを通して、 私たちに死を越える命を与える救いの出来事が実現して行ったことを思ったのです。

聞かれない祈りを祈る者の傍らに、初めからあった言、肉となった言、あの飼い葉桶にお生まれになった救い主はおられる。 そして、人間を照らす光、闇に決して負けない光がイエス・キリスト、私たちの救い主として来てくださった御方から輝き出している。 この一年を、その光の中で振り返る時、私たちは、今この時、クリスマスの恵みの中に確かに立たせていただいているのだと思います。