日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 73号

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「 人を神の子とする霊  」
― ローマの信徒への手紙 8章11~17節 ―

牧師 七條真明

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。 この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。 (ローマの信徒への手紙8:14~16)

「人を神の子とする霊」。この言葉を、聖書の御言葉に触れたことがない人が耳にしたとしたら、どのようなイメージを抱くことだろうかと思います。 日本語で「霊」と言えば、目に見えない、得体の知れない存在を表す言葉として、多くの人は受け止めることでしょう。 しかし、キリスト教会に生きる者にとってはどうなのでしょうか。「人を神の子とする霊」。 その「霊」とは、聖霊と呼ばれる御方、神ご自身にほかならない霊を表しているということ、 そして聖霊のお働きがどんなに大きなものであるかということを、どれほど弁えている私たちであろうかと思うのです。

聖霊。神ご自身にほかならない神の霊。それは、まさに「霊」であって、私たちの目には見えません。 しかし、そのお働きは見ることができます。聖霊のお働きがなければ、高井戸教会という教会は存在していません。 日曜日ごとに礼拝が捧げられるという教会の歩みもあり得ません。教会の伝道によって新たに洗礼を受ける人が生まれるということもあり得ないことです。 つまり、聖霊のお働き、神の霊のお働きがあるからこそ、高井戸教会は存在し、日曜日ごとに礼拝が捧げられており、 新たに洗礼の恵みに与る人が生まれてくる、その喜びの出来事が起こってくるのだということです。

ひとりの人がイエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受け、キリスト者になるということは、 この世にあって特別なことだと思われているところがあります。けれども、洗礼を受けてキリスト者になるということを、 何か特別な人だけに許されるものとして聖書が語っているのかと言えば、そんなことはありません。 洗礼の恵みへとすべての人が招かれている。主イエス・キリストが十字架につかれたのは、 すべての人がキリストにあって真実に生きる者となるためであるからです。

洗礼を受けてキリスト者となって生きること、神を信じる者となって生きることは、特別なことではありません。 不自然なことでもない。むしろ人間にとって自然なこと、そこへと誰もが招かれていることとして聖書は語るのです。

ローマの信徒への手紙第8章1節以下には、「霊」という言葉と共に、「肉」という言葉が出てきます。 12節から13節にかけては、こう記されます。「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、 それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。

肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」。  パウロは、人間を「肉」と「霊」の二つの部分に分けているのではありません。

私たち人間のあり方が、「肉に従って」生きているのか、「霊に従って」生きているのかということを語るのです。 「肉」に従ったあり方とは、自分のことを神と関わりのない存在として生きることを意味しています。

この自分に地上に生きる者としての命を与え、ご自身との関わりの中に真実に生かそうとしていてくださる神さまを拒絶してしまう。 聖書によるならば、自然ではなく不自然な生き方を頑なに貫こうとする。「肉に従って」生きるとは、そういうことです。

 しかし、私たち人間が、そのような「肉に従って」生きるところから立ち帰って、真実に神との関わりの中に生きる者になる。 そのために、御子キリストは来てくださり、十字架の死をもって、神に背き続ける私たちの罪を、私たちに代わって担ってくださいました。 ここに、「霊に従って」生きる道が開かれたのです。神を信じる者として、神との関わりの中で、私たち誰もが真実に生きるための道です。

 私は、礼拝に集っておられる求道者の方に「洗礼をお受けになりませんか」と声をかけてみることがあります。 今の自分よりももっとキリスト者らしいと自分で自分を思える時が来て、初めて洗礼を受けられるのだと、 どこかで思っておられる方が、案外多いように思うからです。

しかし、それは、洗礼の恵みを受けてキリスト者になること、霊の導きに従って神を信じて生きる者になることに対する全くの誤解にほかなりません。

洗礼の恵みを受けてキリスト者になるということは、それとは全く逆のことです。 神を信じて生きるほかはない自分であることを知るということです。 洗礼を通して与えられる神の恵みが、その恵みに全く価しないようなこの自分にも、いやそのような自分のためにこそ、 十字架と復活の主イエス・キリストを通して差し出されている。神を頑なに拒んで生きている、そこから出発しなさい。

あなたに差し出されている神の恵みを見なさい、そして受け取ってほしい。 なぜなら、わたしは、あなたのためにも十字架にかかったのだから。主イエス・キリストはそうおっしゃるのです。 もう礼拝に集うことができないご高齢の教会員をお訪ねした際、その方がこのような祈りをなさいました。 「父なる神さま、どうか私が今日も神さまの子どもであることができますように」。

若い頃に洗礼を受けたその方が、何十年もの歩みを経て、なお神を父と呼び、 どうか今日も神さまの子どもであることができますようにと祈られたことに、私は心打たれました。 まさに、その方において、人を神の子とする霊、神ご自身にほかならない聖霊が働き続けておられる。

そのことを深く覚えさせられたのです。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。 この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」。 洗礼は、神を幼な子のように父と呼ぶ者へと私たちを新しく生まれさせてくださる恵みです。

その恵みの中に生かそうと、神の霊のお働きが今日もなされている。神が、私たちの目には見えないところで、私たち のために、私たち一人ひとりにおいて、今日もお働きくださっているのです。