日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 69号

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「 あなたはわたしの愛する 」
― マルコによる福音書 1章 9 ~11節 ―

牧師 七條 真明

マルコによる福音書 1章 9 ~11節 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから 洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように 御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、 わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた

 「神の子イエス・キリストの福音の初め」。マルコによる福音書の冒頭に置かれているこの御言葉は、福音書の主人公が、神の御子イエス・キリストであられることを指し示すものです。小説や映画といった作品が作られる時、作り手が時間をかけて考えることの一つは、主人公をどのような形で登場させるかということではないでしょうか。ヒーローであれば、ヒーローらしく分かりやすい形で登場することもあるでしょう。あるいは、隠された形で、しかし、主人公がどのような存在であるかを、やはり最初の登場の場面で明らかにする、そのような登場の仕方もあるかと思います。  マルコ福音書においては、上記の冒頭の御言葉の後、すぐに主人公は登場してきません。

洗礼者ヨハネなる人物が荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えたこと、人々が皆、ヨハネのもとにやって来て罪を告白し、洗礼を受けたということが、まず記されます。そして、ヨハネによって、やがて登場される神の子イエス・キリストについて、こう語られます。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」。

 第1章9節に至って、ついに福音書の主人公が姿を現されます。 「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」。

しかし、この御言葉が伝えられた時、何かの間違いではないか、そう思った人が少なからずいたのではないだろうかと想像します。

ヨハネが、この自分を超える御方が後から来られて、聖霊で洗礼をお授けになると語っていた。 だから、神の子イエス・キリストが姿を現されて、人々に聖霊によって洗礼をお授けになったというのならば、つじつまが合う。 しかし、ヨハネから洗礼を受けられたとはどういうことか。そう思う人々がきっといたに違いないと思うのです。

 けれども、マルコに言わせれば、ここにこそ、その存在をもって、私たちに喜びの知らせをもたらしてくださった神の御子がどのような御方なのかが明らかにされている、ということではないでしょうか。 神の子イエス・キリストがヨハネから洗礼をお受けになる方として姿を現されたという出来事の中にこそ、この福音書がこれから一貫して語ろうとしていることが、本当によく言い表されているのだということです。  

他の福音書によれば、洗礼者ヨハネが人々に語りかけた言葉は、実に厳しい調子を帯びたものです。

あなたは今のままでよいのか。神の子イエス・キリストが来られた時、よしとしていただける姿をとっているのか。神の御子が来られることなど、およそ自分とは関係ないかのような心で生きているのではないか。

ヨハネは、一人ひとりの肩をつかみ、激しく揺さぶるようにしながら、今こそ悔い改めて神の方へ向き直れ、と語りかけるのです。ヨハネの真剣な言葉は、人々の心を動かしました。 だから、人々は皆、列をなしてヨハネのもとで罪を告白し、洗礼を受けたのです。

ヨハネの言葉を、私たち人間の心の奥底にある思いまですべてご存じである神の御前で、この自分への言葉として聴くならば、罪を告白し、悔い改めの洗礼を受けるために、誰もがヨハネのもとへ赴かざるを得なかった、 その人々の中に、私たちも立っている。そのことを思わずにはおれません。

 しかし、ヨハネが指し示した神の御子は、私たちの罪を糾弾される御方として姿を現されたのかというと、そうではありませんでした。

罪なき神の御子は、神の御前にある罪人として絶えず悔い改めなければならない私たち人間の中に、その一人のようにしてお立ちになりました。

マルコ福音書は、主イエス・キリストの最初の登場の姿を、そのように記すのです。それは、私たちすべての罪をご自分の身にまとうようにして担い、十字架への道を歩んで行かれた主イエス・キリストのお姿そのものです。  父なる神の御心のうちに、私たちの罪を担う十字架の救い主として、神の独り子が謙られ、ヨハネから洗礼を受けられて、十字架への道を歩み始められる。 その時、天から聖霊が降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との父なる神の御声が聞こえた。

その神の御声は、神の子イエス・キリストに語りかけられ、主イエスにのみ聞き取られた御声でありました。

 しかし、主イエスが、ここから始まった十字架への道を歩み抜いてくださり、私たちの罪が赦されるための十字架の死を死んでくださった今は違うのです。 本来であれば主イエスご自身にのみ当てはまる父なる神の御声は、主イエスを通して、私たち一人ひとりに向けられている御声でもあることを、聖霊を通して知らされるのです。 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。

あなたも、わたしの愛する神の子。わたしの喜びなのだ、と父なる神が私たちにも語りかけてくださるのです。 荒れ野のような世界の中で、私たちは苦しみを抱えつつ生きています。

その根底にある本当の苦しみは、神を見出せず、自分がどれほど神に愛されているのかを知ることができないでいる、そのことから来ていると言えるのではないでしょうか。 しかし、今や神の御声が、私たちに向けられていることをこの福音書は語ってやまないのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。その御声が天から聞こえます。