日本基督教団 高井戸教会

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高井戸教会だより 32号

教会だより

説教 「信仰に生きるということ」
フィリピの信徒への手紙1章21節

神学生 塚本 吉興

私が以前に出席していた教会では、毎年夏に青年会のキャンプが行われていました。テーマは信仰生活と社会生活に関するもので、一泊二日で活発な議論が展開されますが、結論は出ず、また次の年も似たような主題を話し合うことが多かったような気がします。若い信仰者にとって、学校や職場などの人間関係や様々な誘惑は、信仰生活と社会生活との間に深刻な葛藤を覚えさせるものなのです。

何もこれは、青年に限ったことではないのかも知れません。私たちは、キリスト者としてあるべき姿という理想を抱きつつも、毎日の生活の中では現実の波に押し流されてしまうことの方が多いのかも知れないからです。 

私たちが信仰に生きるとは、どういうことを意味するのでしょうか。信仰生活と社会生活の裂け目は深まるばかりなのでしょうか。

フィリピ書において使徒パウロは、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」と語ります。パウロはその波乱に富んだ人生の半ばに、復活の主キリストご自身によって伝道者への召しを受け、残りの生涯をキリストの僕として伝道に献げました。そして、一度ならず、このように述べて、いかにキリストにある新しい命が、罪の中に生きていた古い命に勝っているかを証し続けました。

パウロはここで「生きることはキリストのため」とか「キリストが讃美されるため」とは言わずに、ただ「生きるとはキリスト」と記しています。それは、パウロにとって「キリストがわたしの内に生きておられる」(ガラテヤ2:20)からです。彼は、キリストにあって罪に死に、キリストと共に復活することによって、キリストの命に生きる者へと変えられました。ですから、生きるとはキリストであると断言できたのです。

主イエス・キリストの公生涯は、まさに伝道の生涯でした。町や村を巡っては、病人を癒し、悪霊を追い出し、神の国の到来を告げ知らせ、福音を語られました。主によって派遣された十二弟子たちも、同じように伝道しました。また、パウロも異邦人の使徒として、3度の伝道旅行に赴く一方、多くの手紙を各地の信徒に書き送りました。十二弟子やパウロにとって、キリスト者として生きることは、まさに主がなされたように伝道の生涯を送ることであったと言えるでしょう。それは、主ご自身が命じられたことでもあります。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28:19)

主がこのように命じられたのは、十二弟子に対してですが、聖書を通して牧師や宣教師だけではなく、全ての私たちに語られています。私たちがパウロのように「生きるとはキリスト」と告白し、それぞれに置かれた場所において、福音伝道に生きる時、信仰こそが私たちの社会生活をも貫く柱になります。私たちの全てを受け入れ、慰め、励ましてくださる方が共におられるからです。主の命令は次のように結ばれています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

受難節に私たちは、主の十字架を思い、主が私たちのために死なれたことを覚えます。その時、私たちのみならず、私たちの友人や家族のためにも主が死なれたことを思い、深い祈りの中で、信仰に生きるとは伝道に生きることでもあることを覚えたいと思います。