日本基督教団 高井戸教会

教会だより

  1. ホーム
  2. お知らせ・教会だより
  3. 教会だより
  4. 高井戸教会だより 28号

高井戸教会だより 28号

教会だより

説教 「厳かな復活の出来事」
マルコ福音書16章1-8節

牧師 内藤 留幸

マルコによる福音書は、復活日の朝、墓に出かけた女たちが喜ばしいキリストの復活の事実を眼前にして震え上がり、正気を失ったのは『恐ろしかったからである』と記し、閉じている。これは喜ばしい報せとして、主キリストの十字架による罪の赦しと、復活による新生の恵みを伝える福音書を終える言葉としては、あまりにも、そぐわないのではないかと思われる。

しかしながら、よくよく、考えてみると、主キリストが死の力に勝利されて復活なさったということは、私たちにとって喜ばしいことであるだけでなく、恐ろしいことであったというのは実に意味深いことなのではないかと思う。

主キリストの復活の出来事に最初に出会った女たちは、なぜ、喜ばしいこととは思えずに、恐ろしいことと感じたのであろうか。葬った筈の主イエスの遺体が墓になかったからであろうか。天使らしい白い衣を着た若者が思いがけず、そこにいたからであろうか。確かに、そういうことも恐ろしく感じた原因の一つであったであろう。けれども最大の理由はそれら一連のことを通して、主キリストの復活の出来事には聖なる神のみ手が働き、『神は生きておられる』という厳かな事実を彼女たちが全身で感じとったからではないかと思う。

この『主なる神が生きておられる』という単純・明快なことを信じるのがキリスト教信仰の基本なのである。人の心を見抜かれる神は恵み深く、しかも、厳かに人々に臨まれることを私たちが素直に信じられたら、すべての問題は解決されるし、私たちは完全に救われるといってよいのではないか。そして、この素朴な信仰は、私たちを自己主張にこだわることから解放し、他人に対して深い思いやりを持つように導き、真に謙遜にするのではないかと思う。

ただ、ここで問題になってくるのは『神は生きておられる』ということを自分の都合のよいように考えないで、神がお考えになっておられるように考え、受け入れているかどうかということである。

主キリストを殺そうとした大祭司や律法学者たちも『神は生きておられる』ということを真面目に信じていた。しかし彼らは自分に都合のよいように信じていたため、彼らと異なる仕方で神を示そうとしたキリストを、どうしても抹殺せざるを得なかったのである。彼らにとって、また多くの民衆にとって、十字架につけられた主キリストのように『他人を救ったが自分を救えないような神』では困るのであった。

主キリストは十字架の上でなんの奇跡も起こさず、『わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか』と祈られた後、民衆の期待にお応えにならず”死んでいかれ、墓に葬られた。けれども、主は死の力に勝利されて3日目に蘇られた。それは、多くの人が望んだような復活ではなかった。それは女たちが口もきけなくなるような恐ろしい出来事だった。そういう、神が毅然とその救いのご意思を示された恐ろしい復活だったからこそ、十字架に死なれたキリストの復活は、すべての者にとって福音となったのである。復活された主キリストは、重荷を負う者と、今も共に生き、罪に泣く者の罪を赦す方として、生きておられるのである。