日本基督教団 高井戸教会

教会だより

  1. ホーム
  2. お知らせ・教会だより
  3. 教会だより
  4. 高井戸教会だより 3号

高井戸教会だより 3号

教会だより

説教 「信仰の反省と吟味」
コリント信徒への手紙Ⅱ13章5節

牧師 内藤 留幸

『私には信仰がある』とか『私は信仰をもっている』と普通よく言われるが、考えてみるとこの表現には信仰の大切な点が適 確に言い表わされず、曖昧にされているように思う。というのは『私には信仰がある』と『私には信仰がない』との境はあまり明 確ではないからである。信仰を私たち人間 の側の事柄としてのみ考えようとすると信仰は非常に主観的になり、極端に言うと信 じる気分ともなりかねない。また『私は信仰を持っている』と表現すると、信仰が何か持ち物のように考えられているのではないかと思えたりする。

真実な信仰とは、目には見えないが生き ておられる霊なる神と深いかかわりを保ちつつ生きることである。それ故『私は神を信じている』と告白する者は、生ける神と深くかかわり、神の語り給うみ言(聖書)に聴き従う生活をするのである。具体的には救主キリストを信じキリストのからだである教会に連なり、洗礼をうけ、礼拝を中心に据えた生活をすることである。礼拝は信仰者が生ける三位一体の神と最も豊かにかかわることがゆるされている恵みの時なのである。

コリント信徒への手紙Ⅱ13章5節には信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。 』とのみ言がある。

ここに二つ注目すべきことが勧められている。
① 信仰をもっているか否かを反省し、吟味するのは自分自身であるということである。他人から『あなたは信仰がありますね』と言われたら、私には信仰があるのではない。反対に『あなたは信仰がない』といわれたら、私の信仰がなくなるのでもない。信仰があるか否か、信仰をもっているかどうかは聖書のみ言の光に照らされつつ自分自身で反省吟味しなけばならないのである。
② 『信仰がある』とか『信仰を持っている』ということは、イエス・キリストがわたしの内におられるということである。昔から教会の歴史においては『信仰がある』とか『信仰を持っている』ことのしるしは洗礼であった。洗礼は信仰者と神との関わりが救主キリストを通して始まったこ とを示していた。けれども、洗礼はどこまでもしるしであって、内的事実として洗礼をうけた信仰者の中にイエス・キリストが 生きておられるということが大切であった。キリストが内在している信仰者は何をするにも、どんな言葉を語るにしても、その動機がキリストのみ言に励まされて一つ一つ の行為をしたのである。そして、その最高の行為が主日礼拝となっていったのである。これが使徒パウロが、大きな問題をかかえていたコリント教会の信徒に語ろうとしたことなのである。

最後に聖句を一つ記そう。『あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽せないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。』 ペテロの手紙Ⅰ1:8-9